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【仕事に禅を活かす】 答えが出ないとき 何もしないということをする(前編)

クライアントさんとのコーチングのセッションで、クライアントさんが今置かれている状況を「難しい」と言うことがあります。

一方で、あるクライアントさんは「分からない」と言います。

「難しい」と「分からない」を皆さん結構、無意識で使っています。この2つには違いがあるのですが、なんだか分かりますか?

「難しい」は、過去に引っ張られている言葉です。
「分からない」は、新しい世界に飛び込んでいる言葉です。

これでもまだ難しいですね(笑)。もう少し説明を加えたいと思います。

難しいと考えているときは、解決を探しているものの、なかなかいい答えが出ない状態。

こうした思考や行動で自分を埋めることで、自分という輪郭を作るのです。これらは、すべて自分という尺度で物事を測っています。尺度で物事を測るのは自我のはたらきであり、すべて過去から得た経験です。過去の経験に当てはめて安心を得ようとします。

人は、答えがない状態が嫌なのです。答えがないというのは空き部屋といえます。部屋があくと、すぐに何かで埋めようとします。これは「自我」のはたらきです。

空き部屋を埋めようとする「自我」による想いには、たとえば次のようなものがあります。

なぜ、早く、人より先に、待てない、忙しい、正しい答え、適切な、失敗したくない、嫌われたくない、許せない・・・

もちろん、難しいと感じながらも、考えて答えを得られることもあるでしょう。ただ、自我で出した答えは、さらにあなたを苦しめるかもしれません。

コーチングを受けにこられる方々は経営者、スポーツ選手、アーティストなど、さまざまです。職業は違っても、皆さんそのとき、自分の人生をとても難しいと感じています。それはそうでしょう。自分の人生をどう生きればよいのか。それは考えることでは出ない問いだからです。小さな枠の中で、無理に分かったように自分を納得させることは止めましょう。

では、答えを出そうとすること以外に、どうすればよいのか。

それは、問題を解決しようという思考をいったん止めるのです。では、いったん止めて何をするのか?

それが「分からない」というあり方です。この「分からない」という状態は、実は無限の可能性なのです。


禅の師匠である藤田一照老師は、「坐禅では何もしないということをするのです。そういう状態に留まることで、自分勝手な尺度が外れていきます。ものごとをあるがままに受け入れられるようになるのです。」とおっしゃっていました。

「何もしないということをする」というのは、何かしないといけない現代社会において、真逆の方向性といえます。かなりの難題です。

だからこそ、坐禅が必要なのです。坐禅とは、ただ静かに坐って、呼吸を感じることです。歩くのでもなく、考えるのでもなく。何もしないのです。

坐禅で何もしないことをしているということは、まず身体を「静けさ」の方に向けることといえます。

経営者やスポーツ選手と坐禅合宿にいくと、坐っているとすごく心がザワザワして気持ち悪いと言われることがあります。せっかく、坐禅をして集中状態を体験しようとしているのにガッカリするのです。また、あるプロゴルファーは、居心地が悪いと不満そうでした。

普段、忙しく頑張っている人ほど、坐禅が心地よくないと感じる傾向があります。それは、仕事しているときのあり方とは、まったく逆の方向からのアプローチだからです。

人の脳は意味が分からないという世界にいることを嫌がるのです。分からない世界は、何が起こるか分かりません。それは生存を脅かす恐れがあります。だから、人は分かろうとする。そして、なんとか答えを捻り出そうとします。これは自我で何とか打開しようともがいているのですが、ただこのとき、人の心は閉じています。

そしてしばらくの間、違和感と一緒にいるうちに、今度はさまざまな考えが浮かんでくることに気づきます。

「足が痛い」「腰を動かしたい」「お腹が減った」「あの人に連絡するのを忘れていた」「飽きてきた」「なかなか面白い体験だ」

実は、こうしたさまざまな声は普段も起きているのです。でも、身体が活発に動いていると自分の内側の声には気づけません。そうすると、発生する側も、存在に気づいてもらおうとさらに大きな声を出すようになるのです。これがエゴが膨らんでいく仕組みです。

藤田一照老師は、お寺で修行に入る時、まず10年坐りなさいと師匠に言われたそうです。結果的に10年坐ってみて、エゴはまったく減らなかったそうです。「カニの泡のようにブクブクとエゴが出てきた。こんなにも自分にはさまざまなエゴがあるのだと知った10年だった。」と話されていました。

禅の修行といえば、エゴを静めて悟りを得ることと思われがちですが、そうではないと思います。まずは、自分のエゴを知ること。

身体を静かにして、自分の中から聞こえてくる声をただ聴いていると、考えていないという状態になっていきます。これは、動いていない、考えることをしていないということです。

分からないときは、分からないまま何もしないでおくと、自分という尺度が外れていきます。ものごとをありのままに受け入れる素直さが生まれます。

やがて、答えは出してもいいし、出さなくもいいと状態になってきます。

心を空っぽにして開けっぴろげな状態でいると、あるとき何かがやってくるのです。それは「気づき」かもしれませんし、「インスピレーション」かもしれません。それは、答えを出そうとしていた自分では見えていなかった場所から生まれてきます。

今あなたが何かに行き詰まっていても、そうでなくても、ぜひ分からないという状態に飛び込んでみてください。

話はここで終わりません。分からない世界に飛び込むというのは簡単ではないからです。ほとんどの人は途中で引き返してしまうのです。

ある経営者は、はじめてセッションに来られたとき「難しい」と言いながら、ため息をついていました。数字だけをみれば順調なのですが、以前のように頑張っても、まったく手応えがないのです。いろいろ新しいことをやってはみるのですが、どれも長続きしません。端から見れば、とても贅沢な悩みかもしれません。だから誰にも言えずに苦しんでいました。

セッションを数回重ねる中で、本当にやりたいことに挑んでいないという話になりました。石橋を叩いて壊してしまうのだと。

話を聴きながら、私はあることに気づきました。

「彼は私の力を必要としていないのではないかと。悩みはあるけど、自分で解決できると思っているのではないか」と感じたのです。そのことをお伝えしたところ、ハッと表情が変わりました。

「確かに、私は赤野コーチの力を借りるために来ていませんでした。悩みを話してスッキリするだけの世界に留まっていました。いつもの愚痴でした。今、本当は違うことを話したかったことに気づきました。」

そのとき、心を開いてくれたように感じました。そこからが本当のセッションのスタートです。

坐禅というのは、1人でやっているようですが、本当は周りの世界とやっているのです。空気や重力、目に見えるもの、聞こえてくる音、さまざまなものを感じていると、自然に心は開いていきます。だから、坐禅では常に新しい世界に飛び込んでいるのです。

それまで疑問に思わなかったことが疑問として湧いてくるのは、転換期といえます。何かに気づきなさいというサインなのです。人生からのギフトであり、挑戦状です。それを苦しみと感じるかもしれません。

周りの力を借りながら坐禅をしているように、仕事において人の力に頼るということは、自分を開くことと言えます。自分の心を開かないと、分からない新たな世界に飛び込むことはできません。

分からない世界に1人で飛び込める勇気のある人もいます。しかし、私のような凡人は、いっしょに飛び込んでくれる誰かが必要です。今、新たなプロジェクトに取り組んでいますが、それは一緒にやってくれる人が現れてくれたからです。周りが引っ張ってくれて、恐る恐るついていっています。コーチにもコーチが必要なのです。

今、何かに挑もうとして、迷っている。もしくは一歩が踏み出せないようでしたら、正解を探すのではなく、まずは何かしようとすることを手放してみましょう。

静かになってくると、聞こえてくる声、見えてくるものがあります。

後編に続く・・・


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