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人生が反転するとき5  自我のありのままから縁起のナチュラルへ

人にはまだまだ気づいていないことがあります。

そのひとつが、「当たり前になっていること」です。

当たり前というのは、努力しなくてもできることです。特に頑張ってしようとしなくても自然にしています。だから、当たり前のことには、なかなか気づけません。

では、一番の当たり前はなにか?

それは呼吸です。


面白いことに、坐禅で呼吸を意識すると、呼吸はぎこちなくなります。当たり前のことを意識すると、それは当たり前ではなくなります。

私たちは普段、「何かがある」ことを中心に生きています。

何かあることを追い求めるのは人間の習性です。何かを足そう足そうとするのです。

一方で、当たり前のことは「何もない」ことともいえます。「何もない」ことはすぐに忘れます。息をしていることは、普段は忘れているでしょう。



この普段、意識されず、当たり前になっていることが、実は私たちの生きるベースなのです。

禅において、坐禅をする意味はありません。逆にいえば、意味を求めれば、それは坐禅ではありません。

これは個人的な見解ですが、「なにもない=無」を修行するために、「当たり前のなにもない呼吸」とともにいるのかもしれません。

当たり前のことを意識すると、つまらなく感じたり、逆に苦しくなる人もおられます。以前の私もそうでしたが、「なにかがある」世界で生きていると「なにもない状態」が耐えられないのです。

「ただいる」ということは、人間にとって原点であり、難しいことの一つかもしれません。



私は、人といると疲れます。だから、仕事以外では、人と極力交わらないように生きてきました。

これまでは、人と交わるときに、「何かある」自分でいたのです。人の中に入るほど、自分の輪郭がクッキリと浮かび上がり、人との差異ばかり気になり、無理に合わせようとする。だから疲れるのです。

その反動として、人に合わせることを拒否する。自分が素でいられることを大事にする。ありのままを受け入れてくれる人と付き合うようにする。これを「ありのままの自分」と呼んでいる人も多いでしょう。


「ありのままの自分」


あなたはどう思いますか。


以前、私がありのままでいることを求めていたときは、どこか自分の世界に閉じこもっていました。ありのままを維持するために、人から入られたくないという恐れを感じるのです。これは自我で作った「ありのままの自分」という形です。何かある状態なので、いつも形を壊される恐れがあります。

もっともナチュラルな姿は「自我のありのまま」にはありません。



今は、いかに自我のありのままから、いかに縁起のナチュラルへシフトしていくかを大事にしています。

縁起のナチュラルとは、「何もない」をベースにすることです。自分と他者を分ける「分別」が生まれる前の「もともとのありのまま」といってもいいかもしれません。



食堂をはじめるまで、接客は得意だと思っていました。笑顔で挨拶、声も大きく、テキパキ動く。しかし、それは頑張っている自我がくっきりと浮かび上がっている接客だったのです。

元気に大きな声で挨拶していると、他のスタッフが挨拶していないことが気になります。「なんでもっと挨拶しないのだろう」と。

これは私の自我が、スタッフとぶつかっているのです。ぶつかるというのは、喧嘩という意味ではなく、エネルギーが交わっていないのです。

自我の輪郭がハッキリしているので、私がいれば、スタッフがなくなる。スタッフがいると私がなくなるという状態が起こります。私が正しいか、スタッフが正しいか。あるいはどちらが間違ってるのかという2者択一になりやすいです。

また、テキパキ動くことで、お客さんのテンポより先に行ってしまうことがありました。まだお会計の準備が出来ていないのに、急かしてしまったりしたのです。これもお客さんとの息が合っていない状態です。

自我がぶつかる、息が合っていないというのは、私の長年の課題です。

いかに、人と交わるときに、何もない自分でいられるか。



前回の記事でお伝えした話に戻ります。食堂にいるときに「貪っていない」「怒っていない」「執着していない」の3つのないを唱えています。その結果、私の居場所は出口付近の隅っこへと導かれていきました。

場所が、最前線のカウンターから少しずつ後ろに下がっていく中で、少しずつ自分の力みに気づいています。

今もレジは担当しているのですが、先日、とても力んでいることに気づきました。レジを打つ力も必要以上に強いのです。

このとき初めて、人といるとき、無意識のうちに身体と心に力みが入っていることに気づかされました。人といるだけで緊張しているのです。

「私は人といるときに、こんなにも気を張って、身体を張っていたのか」。人といるだけで、私にとってはかなり大変なことなのだと。

「ただいる」というだけでも大変なのに、さらにいろいろ付け加えようとして生きてきたのだと。

それに気づいたとき、張り詰めていた力がスッと抜けました。

その瞬間、食堂の音が自然に耳に入ってきました。また、スタッフがテキパキと動いている姿が目に入ってきました。レジのボタンの感触を感じました。そして、優しくボタンを押していました。

「いるだけ」というのは、とても小さく優しいです。

別に「ありのまま」を主張する必要もありません。

これがご縁のナチュラルかもしれません(また少し、「私」が消えて食堂に馴染んだかもしれませんが、自分では分からないのです)。



力みは、食堂にいるときだけではありません。朝、体操をしているとき、歯を磨いているとき、ご飯を食べているとき、歩いている時、本を読んでいるとき、すべての瞬間に力みがあるのです。

私たちには、気づいていない力みがあります。「何かをする」というあり方は、自然に力みを生みます。だから普段から力んでいることが当たり前になっていて、自我の力みに気づけないのです。



何かをしている状態では、自我の力みは見えてきません。

そのためにも、「何もない」ベースを体験することが必要になります。

「貪っていない、怒っていない、執着していない」という3つを唱えることで、当たり前が当たり前でなくなっていきます。

無心→有心(自我)→無心→有心(自我)という交互を体験することで、次第に有心(自我)が濾過され、純粋な自我に気づけるようになります。



ただ、力みが悪いわけではないのです。食堂での私の接客にしても、オープンから頑張って率先垂範したことで、さまざまな影響を周りのスタッフに与えていたと思います。ただ、今は後ろに下がり、消えていく流れがやってきているのでしょう。

人といると、どこまでも無限の変化をしていきます。だから苦しいし、だから面白い。

あらためて今、「いる」ということを体験しています。50歳を目前にして、新たな出会い方をしています。

これがとても新しいのです。

あなたの当たり前はなんでしょうか?
そこに今を新しく生きるヒントがあります。



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