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最下位からあらわれてくる『無敵』の心

先日、メンタルトレーニングをしているプロゴルファーが試合に出場しました。結果は最下位でした。

数ヶ月前には、地方の大会で優勝を飾って、今回は最下位。

周りからは、大丈夫かと、かなり心配されたそうです。

しかし、そのゴルファーの感覚では、今回の方が自分らしいプレーでした。今まで一番、心穏やかにプレーできたのです。



なにが違っていたのでしょうか。



優勝した際は、無理に身体を動かしていたのです。

優勝した後、その悩みをきいて、無理に動かすことを止めようということになりました。

そこで、いかに素のプレーが出来るかを大切にして、素でプレーしたら、身体が動きませんでした。

もちろん、無理をすれば動かせます。ただ練習では動かせても、本番の緊張した場面では動きません。

大事なのは、動かない状態でいいということ。それ以上「何もしない」ことです。



先日の最下位になった試合では、無理に動かすのではなく、素の状態で動けるだけ動いたそうです。なんと最初のホールはバントみたいなショットになり、その後もOBを連発。

周りからみれば、まったくダメなプレーでしょう。

ですが、この状態には、無限の可能性が広がっています。

結果は最悪でしたが、本人は希望に溢れていました。なぜなら、無理に動かすことを止めたことで、自然な動きが見えてきたからです。

身体が動かない中で、上半身だけで動かそうとしていたことにも気づきました。

また、足が固まっていたことで、身体が動けなかったこともわかりました。数年前に、「下半身が動きすぎるから球が暴れる原因になっている」と指摘され、下半身を動かさないようにスウィングを改造した影響が残っていたのです。

足を動かさないという、特定の部分に対する矯正は、最初のうちは効果があります。しかし、その部分的な矯正は、全体との調和を崩していきます。そして、足が固まっていくのです。

固まってしまったら、もう固まっていることには気づけません。そして、全体が動かなくなってしまいます。



多くのアスリートが、さまざまな部分の修正によって、固まった部分を作り、リリースすることなくプレーしています。そして、特定の部位が固まっていることに気づかないまま、さらに他を修正するので、さらに状態が悪化していきます。

これは何かしようとしているプレーです。問題を直そう、もっといいフォームにしよう、どうやって打とうか・・・。

何かしようとする心だけだと、失うものがあります。

それは「間」であり、「タメ」です。

スポーツにおいて、タメは生命線です。しかし、何かしようとするほど、タメに必要な「ズレ」がなくなるのです。

より失敗しない正しいフォームを求めて修正を重ねる中で、さまざまな部位が固まってしまうというのは、次のようにして起こります。

多くのアスリートが正しいフォームで、正しい軌道に乗せようとします。無意識に「合わせよう」、正解からズレまいとプレーしています。これは自我で固めたプレーです。

ところが、ズレまいと必死にプレーすることで、その人が持っている独特のリズムやテンポが失われていってしまいます。



「間」だけは、どんな指導者も教えることはできません。1人1人違うからです。


そして、ズレまいとして「間」が失われると、どんなに正しいスウィングをしていても、バットにボールは当たらなくなります。ゴルフでいえば、ボールは飛ばなくなります。

何かしようとする心だけでは、もう固まってしまった部分には気づきません。ズレは部分の修正では戻らないのです。



ズレとは全体性と言えます。

いかに全体性を取り戻すか。



全体性のプレーをするには、何かするときには、何もないことが大事です。ボールを打つときに、何もないことを取り入れるのです。

何もないあり方として、以前の記事で「貪っていない、怒っていない、執着していない」の3つをご紹介しました。

以前の記事はこちらから
人生が反転するとき 「貪・瞋・痴」から「不貪・不瞋・不痴」へ

プレーをする前と、ボールを打つためにアドレスに入ったときに、3つの「ない」を唱えるのです。

「貪っていない、怒っていない、執着していない」

何かをすることにムキになっているとき、3つの「ない」は唱えられません。

そして、3つの「ない」を唱えていると、以下のような感覚が起きてきます。

音が耳に入ってくる。
風を肌で感じられる。
周りの光景が目に入ってくる。

「何もない」あり方とは、「ただいる」ことと言えます。「ただいる」と周りからのエネルギーが身体に入ってくるようになります。これが、何かすることと、何もないことの融合です。




3つの「ない」を唱えることは、全体性からのアプローチです。全体性が戻ってくると、固まっている部分が溶け始めます。

固まった部分が他とつながりはじめることで、少しずつズレはじめます。しかし、いきなり上手くいくわけではありません。

最初は、バラバラ事件が起こります。身体のさまざまな部分がバラバラに動き、信じられないような方向に球が飛んだりします。これが先程のゴルファーが最下位になったとき起こっていたことです。

しかし、これでいいのです。これは、全体性を取り戻すための最初のステップだからです。

今回話題にしたプロゴルファーも、バラバラになることで、足が少しずつ動き出し、自然なズレが戻ってきました。そして、身体全体が動きはじめました。

今回の記事のタイトルは「最下位からあらわれてくる『無敵』の心」としました。「無敵」とは、自分が誰よりも強いということではありません。人と比較している段階では、無敵ではないのです。敵にこだわっているからです。

「敵などいない」というのが無敵の境地です。全体性でプレーできているとき、そこにはライバルも達成すべき目標もありません。自分がいないとき、敵もいないのです。

「『ゴルフの神様』とプレーしている」と表現したプロゴルファーもいました。全体性でいるとき、自分という意識は薄くなっていきます。



「敵などいない」という考え方は、老子の無為の思想にも通じています。

学問をするとき、日ごとに蓄積していく。
「道」を行うとき、日ごとに減らしていく。
減らしたうえにまた減らすことによって、何もしないところにゆきつき、
そして、すべてのことがなされるのだ。
だから、無為によって、しばしば天下を勝ち取る。
行動するようでは、天下は勝ち取れないのだ。

(張鍾元『老子の思想」講談社学術文庫より抜粋)


太陽のはたらき、風のはたらき、大地のはたらき・・・何かをしようとするまえに、天地はすべてのことをなしてくれているのを感じられているでしょうか。

人間は普通に生きていると、することに偏ります。することに偏ると、天地自然のはたらきが感じられなくなります。

道とは、天地のはたらきに目覚めていくありかたといえます。そのために、自分という主観や意志を離れてみる。それが全体性のアプローチです。



「これである」というのは、することを追い求める自我の強化です(これを私たちの意識は肯定と感じるのかもしれません)。

「これではない」というのは、することを離れていく否定の道です。



禅は、しないことを修行する否定の道ともいえます。

曹洞宗の開祖、道元禅師はその著書「正法眼蔵」の中で、「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と述べています。

することに偏ると、自我が強化されていきます。これは結局、自分を縛っていくことになります。

欲望や執着、世の中の価値観に振り回されている自分から解放されるためには、いかに自己をわするる方向、つまり「これではない」という「しない」ことを取り入れていくことを意識したいものです。

スポーツも仕事も、することに偏り、とらわれていく傾向があります。いかに、「しないこと」を取り入れていくかが大切ではないでしょうか。自分が解放されるスポーツや仕事があるのです。

全体性からのアプローチとは、普段やっていることと真逆のアプローチともいえます。

まずは、あなたが何かをしているとき、周りの音が聞こえているかをチェックしてみてください。




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