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坐禅とはゼロに出会うこと 求めるのは与えられているから

言葉には自分を縛りつける働きと、自分を解き放つ働きがあります。

言葉に自分をはめ込もうとすると縛りつけられます。
すでに意味づけされている言葉は、枠になっているからです。

これは言葉の持つ働きであり、それがよい、悪いということではありません。

身動きがとれなくなっているビジネスパーソンやアスリートに出会うと、概念と意味づけでがんじがらめになっていたりします。

コーチングのセッションをするときには、言葉の使い方が大事です。

クライアント自身が問題だと思っているものは、すでに概念という枠になっています。

自己啓発の本には、こんな言葉遣いはNGということが書かれていたりします。その考え方は、また新たな枠を生み出します。

「どういう言葉を使うか」ではなく、その言葉がどこから生まれるかが問題です。また、言葉には「鮮度」があります。

言葉には、自分を解き放つ働きもあります。

それは、枠になる前の言葉。言葉になっていないものです。分からないものと言ってもいいかもしれません。

今、この瞬間、言葉になっていない何かがあるのです。

ただゼロの心で話を聴く。
クライアントの心を感じる。

すると、まったく意味のない言葉が浮かんでくることがあります。

それはとっても小さく、儚い。
柔らかく、傷つきやすい。
そして、温かい。

現れるのは一瞬。すぐに消えてしまいます。
その一瞬の「なにか」をそっとすくいます。

生まれたての赤ちゃんのような言葉。
言葉の赤ちゃんかもしれません。

それは、私の言葉ではありません。
クライアントの言葉でもありません。

「無我」から生まれた言葉。
「つながり」から生まれた「魂」と言ってもいいかもしれません。

この生まれたての「なにか」は、心を解き放ってくれる働きを持っています。

本当は、言葉にしなくてもいいのかもしれません。
言葉にしてもいいし、言葉にしなくてもいい。

そんな揺らぎが感じられるだけで、心は安心します。

私は、言葉になっていない何かを感じることを「ゼロの対話」と呼んでいます。

古い言葉を捨てて、本当の自分になる旅にでかけよう。
自分を解き放つ言葉は新鮮で、とっても懐かしい。

その瞬間に出会いたくて、今日もゼロの心で対話をしています。

坐禅では、空気の存在をとても大事にします。
当たり前のようにある空気をあらためて感じるのです。

私たちは、与えられていることをつい忘れてしまうからです。
与えられるものなくして、求めることはないというのが禅の考え方です。


空気なくして呼吸はない。


だから、求めるという働きが起こるのも、何か与えられている力が存在しているからです。

愛もそうかもしれません。
何かが与えられているから、愛を求めるのです。

では、何が与えられているのか?

いろいろ言葉にすることは出来ると思います。

でも、言葉にしなくていいことがあるのです。

ただ、与えられているという方向に心を向けてみる。
そのこと自体が「坐禅」です。

禅の修行は、言葉になる前にアクセスすることとも言えます。
実は、そこに「安心」があります。

言葉になった瞬間に、その安心は消えてしまうのです。
似ている、まったく別のものになります。
それはどんなにいい答えでも同じです。

ビジネスでもスポーツでも、考えて言葉にしようとします。

どんな意味があるのか。
どんなニーズがあるのか。
どんな戦略があるのか。
どんな目標を立てるのか。
自分の長所は。短所は。
どうすればもっと成績があがるのか。

言葉にすることも人間の持つ自然な働きです。
言語化する能力は、とても大事なものです。

一方で、人はもともと言葉になる前にアクセスしているのです。

これが生きる上でのゼロポイントです。

行き詰まっているとき、人は必死に言葉を探します。

問題の原因を表現する言葉。
納得できる言葉。
説得できる言葉。

自分を表現する適当な言葉を求めるのです。

しかし、言葉を探すほど、与えられているという方向性がなくなっています。だから、余計に言葉という世界の中で囚われ、苦しむことになります。考えれば考えるほど、言葉が作り出した自我ばかりが大きくなって、独りよがりな固い答えになっていきます。

ゼロポイントを忘れてしまっているのです。

言葉になる前のゼロポイント。

それを直感と呼ぶかもしれません。かなり近い感じもしますが、直感というのは、ゼロから生まれたものかもしれません。

ゼロポイントとは、ただ坐禅を組むことであり、
西方浄土に手を合わせることであり、
「阿弥陀仏」をただ称えることであるのではないでしょうか。

どれも行為そのものに意味はありません。
逆に、坐禅や念仏に意味づけしたら、それはもう坐禅でも、念仏でもありません。

意味がない世界にただ身体を向け、心を向けるのです。

私はアスリートとのメンタルトレーニングで、「言葉になる前にプレーみてください」とリクエストすることがあります。

ゴルフでいえば、「言葉になる前に打つ」。
野球でいえば、「言葉になる前に投げる」「言葉になる前にバッティングする」。
陸上でいえば「言葉になる前にスタートする」「言葉になる前に走る」「言葉になる前に跳ぶ」。

ある野球選手は、「自分を言葉になる前の世界に飛び込ませる訓練ですね」と話していました。最初はかなり難しかったそうです。坐禅をしたり、目を閉じてプレーをしたり、さまざまなトレーニングをする中で、あるとき言葉がなくなった瞬間に出会えたそうです。

本当に向かうべきは、記録でも対戦相手でもなかったのです。

それは、それまでの枠を超えたまったく新しい自由なプレーだったそうです。そして同時にまったく自分らしい、もともと自分が知っていたプレーだったそうです。

これは、ビジネスについても言えます。

行き詰まっている経営者とセッションをしていると、納得できる答えを探していたり、さまざまな言い訳に出会ったりすることがあります。

とても苦しい状況です。周りの人はとやかく言うかもしれませんが、その苦しみは本人にしか分かりません。その苦しみに心から共感します。

ただ一言で申し上げると、「やっていない」のです。

逆に言えば、それは試練が与えられているのです。

だから、やるべきことは、目に見えない「試練」にぶち当たっていくこと。目に見えない世界に一歩踏み出して見ること。

考えるより前に、まずやってみたらいいのです。これが言葉になる前のゼロポイントを生きるということではないでしょうか。

ビジネスでもスポーツでも、人生にゼロポイントがあるかないかで、何も変わらないかもしれません。でも、まったく違うかもしれません。

それはいつ分かるでしょうか?

今、分かったかもしれません。死ぬときにしか分からないかもしれません。残念ながら、死んでも分からないかもしれません。

でも、私は今日も手を合わせます。気がつけば仏を称えています。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。今回の記事はどうだったでしょうか。

この一ヶ月ほどいろいろな試練が立て続けに起こる中で、お届けするメッセージがついに何も浮かんでこなくなりました。書くという気力もなくなっていました。それでも何か浮かんでこないかと必死に言葉を探しました。

でも、どの言葉も色褪せて見えるのです。書いても書いても違うのです。

ただ、言葉にならない苦しみの中に居続けました。

締め切り当日の朝、さすがに今回お届けするのは無理だと諦めました。その瞬間にフッと楽になりました。書きたいというかすかなエネルギーが生まれました。

ただ、与えられた言葉をただ必死に追いかけました。書き上げて心が震えています。

ただ、非常に個人的な内容かもしれません。内容の整合性にも配慮出来ていません。今の私にもっとも必要なメッセージをいただいたように思いますが、皆さんにどうお役に立てるのかは分かりません。分かりにくければ本当に申し訳ありません。

でも、同時に心に響く人がいてくださるという「信」はなぜかあります。1人かもしれませんが。書きながら、さまざまな人の顔が浮かんできたのです。超個人的であることと、一緒であることは繋がっているのかもしれません。

苦しみとは、生育歴や物事の捉え方だと思っていました。確かに「苦しみ」には、考え方を変えれば、幸せになったり、和らいだりするという側面はあるかもしれません。そのために、心理学などは有効です。変えられるところは変えたらいいと思います。

ただ、見えてしまう苦しみがあることに最近気づかされました。深い業が見えてしまう人がおられます。これは変えられるというものではありません。生来持ち合わせている苦しみがあるのです。

先日もそこまで見えてしまうのだと思うような方がおられました。苦しいと叫んでいる私の苦しみなど、たいしたことがないと恥じました。でも、苦しみに寄り添う人でありたい。それがコーチとしての原点のように思います。

今回、必死に書こうともがく中で、苦しみの底が抜けたように感じました。少しだけでも苦しみが深まったのであれば嬉しいです。それが私に与えられたこの「生」の宿題かもしれません。

言葉にならないことを言葉にしようとすること。上手く出来るかどうかではなく、ただそのプロセスに心を向ける。それが私に出来ることのように思います。

生まれたての言葉を送ります。風のように受け取っていただければ幸いです。

ここまで忍耐強く読んでくださり、心から感謝申し上げます。

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