見出し画像

「中道とフラットな心」 いつも自分に寄り添ってあげる。 どんな自分にも寄り添ってあげる。

先日、山を歩いていると、後ろを歩いている人の気配が。姿が見えない中で、後ろの足音が近づいてくるのがずっと気になっていました。昔から誰かが自分の領域に侵入すると、すごく嫌なのです。また、追い越されるのが嫌いという私の負けず嫌いの性分もあると思います。

最近はコロナ禍で、家にいることが増えました。1人で過ごす時間が静かで心地よく、おかげさまでいろいろな気づきもありました。

ただ、一人の世界が気持ちよくなりすぎるのは危険です。この世は人間関係をはじめ、さまざまな苦しみでできているからです。それから離れすぎると純化が進みすぎて、人を遠ざけるようになります。あるいは、不快なものを避けるか攻撃するようになるのです。

自分の心地よさだけを基準にすると、自分にとって居心地のよくないものを排除する働きが起こってきます。私の周りにも、自分のありのままを妨げる人は許せないという人がおられます。時として瞑想や坐禅が自分を閉じていくものになってしまうのです。

これは私の目指すところではありません。周りの環境や人にもまれながら、いかに生きていくか。苦しみをしっかりと感じること。自分の愚かさを受け入れること。これが私にとっての禅の修行です。

禅の師匠である藤田老師は、「坐禅は1人でするものではない」とおっしゃっていました。

この言葉には、さまざまな意味が含まれているように思います。大勢といっしょに坐禅するという意味もあるでしょうし、そもそも坐ることは、空気や重力など、周りのエネルギーとの交換なのです。

これは自分を開いていく方向への坐禅と言えます。

本来、バランスがとれるはずの坐禅においても偏っていくことがあります。人はいとも簡単に偏ります。バランスがとれたフラットな状態でいることは、結構難しいです。

フラットな状態はメトロノームのようなものかもしれません。
フラットという状態にあるのは一瞬で、すぐに偏っていきます。

偏ったときに、心は苦しくなります。
苦しさというのはシグナルなのです。
何かを知らせようとしてくれているのです。

以前は、苦しさから目を背けていました。何かのせいにしたり、必死に逃げようとしたりしていましたが、目を背けるほど苦しみは追いかけてきます。逃げるほど偏っていくのです。

これは「〜でなくてはならない」という状態。

一方でフラットな状態には、「〜でもいいし、〜でもいい」という揺らぎがあります。

最近、クライアントさんに「赤野コーチはさらにフラットになりましたね。なにか悟ったのですか」と言われることがあります。

なにか悟ったのでしょうか?
以前よりも、いい人になったのでしょうか?

残念ながら、そうではありません。最初にも書きましたが、日々自分の未熟さに葛藤しています。

怒りや悲しみ、嫉妬、うらやみ、不安、焦り、分からない。いろいろな感情や思考で心がざわつきます。もちろん喜びや幸せもありますが、つい最近は、あるショックな出来事があり、目の前が真っ暗になりました。

ただ、怒っていてもフラット、悲しんでいてもフラット、喜んでいてもフラット、恨んでいてもフラットでいることはできます。

目に見えない何かが出会い、怒り、悲しみ、喜びなどの感情が生まれます。そして、消えていきます。
これはすべて自分でコントロール出来るものではありません。

怒りや悲しみ、喜び、恨みなど、すべての感情は、私のものであり、私のものではないのです。

これはすべての感情や思考について言えます。

どんなに怒りたくないと思っても、怒りは自然に起こってきます。これは避けられません。でも、怒りとどう付き合うかは選べます。

・怒りをさらに増幅する
・怒りを理解してあげて、寄り添う

怒っていることに気づかないと、怒りはさらに増幅されていきます。それは言葉や身体の暴力になったりします。まずは、怒っていることに気づけるかがポイントです。

そして、怒っている自分を理解してあげられるか。怒りを否定したり、怒りを静めようとしたり、怒りの原因を分析しようとしても、怒りという感情は納得できません。ただ怒っているという状態といっしょにいてあげる。そうしている間に、怒りは少しずつ変化していきます。

固い状態から少しずつ柔らかくなっていく感じかもしれません。
自分の中にあった強い怒りが揺らぎはじめるのです。

揺らぎがあると、自然に心はフラットになっていきます。
「〜でもいいし、〜でもいい」という状態です。

怒ってもいいし、怒らなくてもいい。

これは他の心の状態についてもいえます。

苦しんでいてもいいし、苦しまなくてもいい。
悲しんでいてもいいし、悲しまなくてもいい。
喜んでもいいし、喜ばなくてもいい。
恨んでもいいし、恨まなくてもいい。
分からなくてもいいし、分かってもいい。
そして今、幸せでもいいし、幸せでなくてもいい。

しかし、1人で揺らぐのは、結構難しいです。
自分で自分のことはなかなか分からないものだから。

私にとって、コーチという仕事は、対話の中で鏡のように相手を映し出すこと。これは、意図してやっているのではありません。対話という働きが鏡の働きを持っているのです。

クライアントさんの中には、さまざまな感情もあります。許せないときもある。見たくないときもある。攻撃したくなるときもある。つい、余計なことを言ってしまうときもある。

以前の私なら、苦しんでいたら、それ以上ひどくならないように解決策を模索していました。バランスが崩れていたら心配して、フラットになれるように促していました。

自分が心配性なので、クライアントさんに自分を投影してしまうのです。でも、それを消そうとすると不自然です。自分の心の揺れ動きも大事な働きのひとつ。相手だけでなく、自分の心の状況にも寄り添ってあげることで、さらに新たなフラットが生まれていきます。

1人のフラットから2人のフラットへ。それが対話の持つ働きであり、ダイナミズムでもあります。

そうした場から生まれてくる言葉はシンプルです。


解決に迷っているようであれば、
「今、迷っていますね」


早く答えを出したくて焦っているようなら、
「今、焦っていますね」


どうもこうした私のあり方が、クライアントさんはフラットに感じるようです。

ちなみに、私はフラットでいることを求めています。
あなたはいかがでしょうか?

私のところに来られるクライアントさんたちは、フラットであることを無意識に求めているようです。

ある経営者によると、「自分がフラットでないと、従業員を苦しませてしまう」そうです。

別の経営者は「偏っていることに気づかないと、経営判断を見誤る」そうです。

あるスポーツ選手は、「フラットでないと、ムキになってしまう」そうです。

皆さん、偏るという苦しみを感じているのだと思います。

逆にいえば、「自分の状態がフラットであれば、たとえ周りから反対されてもどんな決断も出来る」と話されていた経営者もいらっしゃいました。

禅の師匠である藤田一照老師の自宅には、スラックラインがあります。スラックラインは、紐の上を歩いて綱渡りするスポーツです。

藤田老師は長年スラックラインをされていて、スラックラインはまさに禅だとおっしゃいます。

私も体験してみましたが、紐の上に乗ろうとするとすぐに落ちてしまいます。怖いので足元を見ると、すぐにバランスを崩します。また身体を固定しようとするほど、不安定さは増します。いかに、遠くを見ながらフラフラする不安定さに身体を委ねられるかが問われます。不安定の中に一瞬の安定が生まれるのです。

なかなか上手い表現ができませんが、これは体験から気づくしかない領域です。頭でどんなに分かろうとしても無理なのです。全身をいかに感じるかの訓練ともいえます。私も購入して練習していますが、なかなか上手くいきません。頭で考えすぎてしまう人にお勧めです。

フラットであろうとするのは、スラックラインの上にのっているようなものです。頭で考えた瞬間に落ちてしまいます。いかに全身でバランスをとり続けるかが重要です。ただ、面白いことに自転車と同じように、一度乗れるようになると、今度は逆にこけるのが難しくなるのです。

フラットとは安定した状態ではありません。何か正しい状態でもない。むしろ、これがフラットだと決めようとすると、逆にフラットから遠ざかっていきます。

だからフラットでもいいし、フラットでなくてもいいのです。

軸は、ブレるから分かってくるのです。ブレていいのです。思いきり偏っていいのです。もちろん、大きく振れると苦しいですが、思いきって振れることで何か軸が現れてきます。

禅では「中道」のあり方を修行を通して学んでいきます。中道とは2つのものの対立を離れていること。両極端の道を避けて中道を歩むことで、真理を発見できるとされています。

フラットな心は中道に通じるのではないでしょうか。

ある禅の老師は「得ようと頑張って、考えて考え抜いて、考えることを諦めたときに、何かが顕れてくる」とおっしゃっていました。求めることは煩悩とされていますが、求めることを否定する必要はないのです。求めたければ、とことん求めていい。求め抜くことで、与えられていることに気づけます。苦しみ抜くことで、希望が見えてきます。


いつも自分に寄り添ってあげること。
どんな自分にも寄り添ってあげること。


それさえあれば、偏ったときも迷っているときも、フラットはいつもあなたとともにあります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?