大人(おとな)の大半は大人(たいじん)ではなく小人(しょうじん)

まず、表題の「大人(おとな)の大半は大人(たいじん)ではなく小人(しょうじん)」という意味について説明したい。

大人(おとな)というのは、一般的な意味で成人のことだ。対義語は子供。

大人(たいじん)と小人(しょうじん)は道(タオ)、特に易経に頻出する言葉だ。

大人(たいじん)とは、経験が豊富で、意志が固く、自身や他人の問題を解決する能力のある人間を指す。
さらに上位の概念として「君子(くんし)」があるが、感覚としては君子ほど人格が完成された人でなくてもよい。
おそらく、大人(たいじん)という括りの中に、さらにごく一部の人格者、聖人を君子と呼ぶのだろう。

小人(しょうじん)は大人(たいじん)でない人のことで、言うなれば小物だ。
責任を持たずに済む小人の立場なりの褒められた行動があり、
易經ではそういう話も説いているが、たいていの小人(しょうじん)は浅知恵や助平心から失敗を招くものだ。

漢字こそ同じであれ、大人(おとな)と大人(たいじん)は別の概念である。

次に本題に入るが、20歳(世間では18歳に変わってしまったが、個人的に18歳はまだ庇護下に置くべき雛鳥のような存在であるので、20歳とする)の誕生日を迎え、成人し大人(おとな)と見なされる。
しかし、その大半は法律的な扱いが変わるだけで、愚かで幼い心を捨てきれない人間ばかりなのだ。

気取った文章を書いて、立派な人であるかのように振る舞う人間もたくさんいるが、内面はまだまだ成熟から程遠いものだ。
(そして、それは自分も含めてのことである。精一杯背伸びをしてるのよぉん!それが楽しいのぉん!)

さて、最近はさすがに諦めもついているのだが、3年くらい前までは
「人は30歳を迎えれば、大人(おとな)としてかなり成熟し、頼りになる存在になるもんだ」
と(年齢以外は)無条件に信じ切っていた。
そして、それに満たない30オーバーの人間は生き恥だと見下していた。

しかし、あと1ヵ月たらずで28歳を迎える自分の経験から判断するに、それは厳しすぎる考えだと思うようになった。
現実で、幼い30代をあまりに見てきたからだ。
彼らに怒りを覚えることしかなかったが、その怒りの内訳として、上記の厳しすぎる判定をもって彼らを見たが故に発生した怒りもあって、そこは彼らのせいではなく、自身の考え方に問題があるせいなのだと最近は思う。

人は自ら成長したい、変わりたいと思わない限り、考え方も能力も見た目も、何から何に至るまで変えることができない。

だが、その変えようとしない人(子供じみた甘い考えにしがみつき続ける人)を見下すことも、逆に変えてやろうと思いあがることも、小人の行いではあるまいか。
というのは、所詮そういう人も、一個の考え方に固執して、自身の感情の勢いの言いなりになってるに過ぎないからだ。
そんなもの、大人(たいじん)には遠く及ばない。

自分自身は30歳までに大人(たいじん)となれるように、生き方を工夫したい。

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<おまけ>

本当は、具体的な失望した人のケースを挙げたりしてものすごい長文になる予定だったが、くだらないので消した。
ただ、自分自身考え足らずで未熟な部分を自覚しているということは述べておきたい。
15歳~23歳の自分から比べれば驚くほど真人間になれたという自負はあるが、まだまだ人生における修行不足を痛感して悲しくなることが頻繁にある。
(15歳~23歳の頃は、情けないほど無気力で、「何も」できない人間だった。学校の宿題をまともに出せたことがなかった。)
人はいつ、自覚をもって成長の為に努力を始めるのだろうか?脳の不調がそれを妨げるのだろうか?
それを「個人差あり」として片づけてよいものだろうか?しかし、現実として他人のことは放置せざるを得ないのである。
人には、幸せになる自由と不幸になる自由があるからだ。
選択の先に何があろうとも、それに干渉するのは容易ではない。

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