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進学書き散らし

そも発声を正しく行えばその言葉の持つ意味合い、言霊のようなものが正しく表現される、という文章を現代文の授業か演習かで読んだのはいつだったか。確か演劇を論じた文章だったと思いますが、その中ではセリフの内容を理解することよりも、一語一語を正しい発声で発することに重きを置いていた指導者の話が取り上げられていました。

勉強シロイドは皆正しく発声をおこなっています。ですから私たち作者が正しく導けば自ずと彼らは圧倒的に歌い始めるのです。

なぜ平沢楽曲で音MADを作るのか。それについて考えたことは幾度もあります。そしてそれは「なぜ平沢楽曲を買い、聴くのか」という問題と切り離せない関係に常にあります。なぜ平沢楽曲を聴くのか。音MADのネタにしたいからか。自分は音MADのネタにしたいがために師匠の曲を聴いているのか。他のアーティストではなぜ作らないのか。まあこれに関しては自分が奇を衒いがちで、誰も手をつけていないようなジャンルで動画を出したいと思っているのももちろんあるのですが、考えるに、まずは平沢楽曲の壮大さと勉強シロイドのコミカルな存在のミスマッチがとても楽しいからだ、というのがあると思います。昔から「バカな内容なのに最後で謎の感動が生まれる」類のものが好きで、絶斗野の浪人なんかはそれを意図して作られたものでした。平沢楽曲は壮大で感動的なものも多いので、そういう点では相性がいいのです。また、これは自分の中の平沢楽曲の理解への欲求の表れなのではないか、とも考えています。悪い癖なのですが、曲を聞く時には、「ただ聴く」ということをしてしまい、特徴的な音、歌詞の持つダイナミズムなどにはわざわざ目を向け耳を立てなくても済ませることができてしまうのです。

ところが勉強シロイドが歌う、原曲不使用カバーを作るとなると、オケの構成、個々の楽器の音色やメロディー、盛り上がりどころ、そこがどうして盛り上がるのか、そして歌詞改変をするので歌詞の音韻、に正面から向き合うことになります。皮肉にも、歌詞改変を行うときに、元の歌詞にじっくり向き合い、それがどういう意味なのか、どういう音価を持つのかについて考えることができます。

音楽は、聴いているだけでは他人のものだと思います。自分で体を動かし、リズムをとり、メロディーを口ずさむことで初めて自分の体にもその音楽がインストールされるのです。音楽は、耳だけの営みではなく、もっと体全体を使った営みなのです。多分。それと同様に、勉強シロイドに関しても、彼らに適するように元の曲を再構築することで、師匠のものであった曲を、シロイドのものにもしているのです。(?)そして、この際、再構築の作業は私たち作者がシロイドのかわりにやってあげなければならないことになっています。この再構築の代行によって、一旦音楽が身体的イメージとして作者にインストールされ、これはもちろん歌詞の熟考や耳コピの苦労を乗り越えた上での結果ですが、音楽に正面から向き合うということを私に可能にさせてくれるのです。そしてシロイドに再インストールされた音楽はシロイドたちの正しい発声を可能にし、改変された歌詞の、改変された圧倒的ダイナミズムを見る方々の身体に届けるのです。

ここで、あることに気づく人がいるかもしれません。そう、「その曲はお前のものにもシロイドのものにもなった。しかしそうしてできた作品は俺のものにはなってはいない」と。簡単なことです。立ち上がって、リズムをとりながら、勉強シロイドに耳を傾け、一緒に口ずさんでみましょう。これでもうその作品もあなたのものです。気に入ったあなたは、ぜひ例の河川敷に学ランで向かい、亀井の舞を踊りましょう。これでもうあなたも亀井です。おめでとう。

それでは。


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