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海老と空

おがくずの中でモゾモゾと動く海老が青黒い顔を出してこちらを向いた。黒い目がこちらを見ていた。母はおがくずから海老を取り出し、竹串を刺してヒゲを切ってはお湯の中に次々に入れていた。くつくつと煮える海老の香りが台所から居間の方に漂ってきた。

茹で上がった海老はあくまで赤く、びっくりするほど大きくて、ほんのりと甘い匂いがした。私は美味しそうとかいただきますとか、もごもごとつぶやきながら、串を抜き、皮を剥いて、ぷりっとした身を取り出して、ふーっと息を吹いて熱々の海老にマヨネーズを直接載せて口の中に放り込んだ。

甘さとマヨネーズと海老の身と味噌の味と茹で汁の香りが口の中いっぱいにひろがって、ぐぐ、んん、と言ったような言わないようなで、すぐに食べてしまった私はもう一匹目に手を伸ばした。もう一匹も、あくまで赤く、びっくりするほど大きくて、ほんのりと甘い匂いがした。

海老を食べ続ける私の様子をみて、父も海老に手を伸ばして、それで、それは帰ってこれるものなのか、と聞いた。母は後ろを向いて台所で机を拭いていた。私はあくまで皮を剥き続けた。手を止めることはできなかった。やはりマヨネーズを載せて頬張って、甘さとマヨネーズと海老の身と味噌の味と茹で汁の香りを口の中いっぱいに広げたあと、さらにもう一匹目に手を伸ばして、うーん、と言った。

父は皿に取った海老から串を抜いた。うーん、ごめんね、私はそう言って、また海老を食べた。毎年のあの美味しい海老だった。小さい声で母が、ご飯あるけどどうする、すこし食べる、と聞いてきて、や、だいじょうぶ、うん、お酒もいいや、明日戻るし、と答えた。

もういつから使っているかわからない手拭きで手を拭って、手拭きにのこった赤の色をみながら、またもう一匹に手を伸ばした。いま食べている海老と昔の海老の味がごっちゃになってきた気がした。

家を出る前に、いつものようにお米をもらった。もう要らないよ、とも、家も引き払ったから、とも言えなかった。じゃあね、行ってきます、そう言って玄関を出て、歩き始めた。振り返らないようにと思ったけれども無理だった。何度も振り返った。父も母も外に出て道の真ん中に立ち、坂を下りて曲がるところまで私を見送ってくれていた。

見えなくなってしばらく歩いて、立ち止まって何度も何度も、何度も呼吸をして空を見上げた。私たちの先陣で上空に飛んでいく船の煙が、宙に向かってゆっくり伸びていくのが見えた。お米の袋がカバンの中でザラッと音を立てた。

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