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二楽荘の慟哭

 1932年10月、東洋の美が炎に消えた。

 中華の美が燃える。微細な彫刻の施された竜が炎にとろけた。凍てつく荒野の石柱から採集された拓本が灰となる。
 アラビアの美が燃える。部屋の噴水は枯れ果て、炎を押し留めることはできない。砂漠の中の無名の都市から発掘された紅玉を火が彩る。
 エジプトの美が燃える。大ピラミッドの壁画が白昼の砂漠さながらの陽炎の向こうに佇んでいる。ピラミッドの地下の五本の指の像が火に飲まれる。
 インドの美が燃える。ベンガルトラの毛皮が炎に嘗め尽くされる。忌まわしき鼻を伸ばす象神の姿が炎に苦悶している。
 廻廊式書庫の蔵書はくまなく切り刻まれた上に念入りに油が撒かれており、燃え尽きるのにかかった時間はほんの僅かだった。

 僧侶は滂沱の涙を流しながら、燃え盛る邸宅を歩いていた。
「猊下……あと一つです」
仏教の原点を探し求め西方に旅立った探検隊が目の当たりにしたのは数えきれないほどの真実であった断片的に収集されたそれはその実全て繋がっており人類が未だ存在しない時代の真相を暗示していた人の目に触れるには余りにも冒涜的なそれらを収蔵してきたこの場所は既に閉鎖され

 僧侶は、壁画の前で足を止めた。
 この壁画仏こそ、僧侶の最後の目的であった。
 その壁画の仏には、顔が無かった。
 イスラームを信奉する人々が東方に進出した後、偶像崇拝を否定する彼らは発見した壁画の人物の顔を削った。
 しかし、この壁画が発見された石窟は、探検隊の発掘まで岩場に埋もれ続けてきた。
 石窟で発見された6枚の壁画――
「喝!」
 裂帛の気合と共に、鉄槌を振り下ろす瞬間、僧侶は壁画の隅を見てしまった。
 そこに刻まれていたのは、壁画に向けて鉄槌を振り下ろそうとした瞬間、背後から肩を叩かれる男の図だった。
「君は賢すぎる。もっと愚かになりなさい」
 耳元で、声が聞こえた。

 2014年10月、旅順博物館。
「すみません、私は日本人で……」「パスポォートォー!」
(続く)

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