百万弗を焼け
百人部屋の臭いはどこも変わらない。
沖仲仕にこびりついた塩と埃、きつい安酒と得体の知れない肉が混ざり合った反吐、連れ込まれた商売女の噎せ返る脂粉と香水。
だが、その日は違った。
静まり返った廊下には、人どころか油虫の気配すらない。
かすかに漂うのは、墓場の土と蛆の臭い。
仄暗い廊下を巨漢が歩いている。巨漢の顔は生白い仮面で隠されている。
巨漢は東端の部屋の前で止まり、閂ごと扉を外した。
部屋の隅には醜男が怯え竦んでいた。
巨漢は意外なほど素早い動作で醜男を捕まえる。
「しんぞうは何処にある」
巨漢はその鉛のような色の剛腕で、男の二の腕を万力のように締め上げる。
醜男が暴れ、腕を振った拍子に蒼白の仮面が床に落ちる。
仮面の下の顔を見た醜男は、次の瞬間、泣き叫ぶことすら止め、崩れ落ちる。
やがて、男の腕から肉が爆ぜる音が聞こえ――爆ぜて――爆ぜて――
神戸、諏訪山の神社に一人の男が参拝している。
男は神社に不釣り合いなほど完璧なビジネススタイルである。
男は拝殿のすぐ前に置かれた、傾斜した台の前で足を止めた。
男はおもむろに台に跪き、拝殿へと視線を合わせた。
そして、台へとゆっくり額突いた。
一度、二度、三度。そして――四度。四度とは何たる冒涜であろうか。
跪拝を終えた男の背後から声がかかる。
「御用がありますか」
男は振り向かず頷く。
次の瞬間、男は意識を失った。
あまりにも早い当身であった。
開港以来、居留地の西隣に居住した華僑達が犯した犯罪は、最も多いのが上海で、賭博などがそれに続く。
しかし、殺人事件は記録されていない。ただの一件も。
男は目を開けた。
殺風景な部屋の粗末な椅子に男は座っている。
目前には風采の上がらない眼鏡をかけた女性が佇んでいる。
男は慌てて胸の内ポケットから玦を取り出し、女に見せた。
「協定を破り、このような質問をすることを許して頂きたい。22日の税関の火災は、君達の手によるものだろうか」
「いかにも」
(続く)
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