トリスタン文書 〜バスケットボールの定理を求めて〜 (2)
第2部 ディエゴ・トリスタンの弁明
サッカー界の三つ巴の争い
満月の夜、書斎でシリアルを食べるメフィスト(仮名。a.k.a the Thing of Evil)。
トリスタン(186cm。元スペイン代表FW。円卓の騎士の一人)、やってきて戸を叩く。
メフィスト 俺の食事を邪魔するやつは誰だ?
トリスタン 我が名はトリスタン。バスケットボールの謎を解くという聖杯を探す者……って、この間もお会いしたじゃありませんか。
メフィスト 本当にあのトリスタンか? 前よりだいぶ身長が縮んで見えるし、肌の色も……。
トリスタン 姿形を自在に変えるのはメフィスト先輩の十八番(おはこ)でしょう? あれ? なんと、あの大魔術師マーリンの得意技と同じとは、さすが先輩!
メフィスト ふん。そうやってすぐに俺をおだてようとするところは、たしかに以前会ったトリスタンに似ているな。
トリスタン 似てるもなにも、同一人物ですからね。身長が縮んでも肌の色が何色でも私は私です。まあ、今日の私は手よりも足でボールを扱う方が慣れているという違いはありますが……。
メフィスト ディエゴ・トリスタン!
トリスタン そうです。それが私の名前です。
メフィスト ディエゴ・トリスタンといえば、現役当時、”彼”の中でイケメンサッカー選手ランキング1位の座をイケル・カシージャスと争った男だ。
トリスタン へえ。そうだったんですか。
メフィスト イケメンと言われて、もう少しうれしそうにしたらどうだ?
トリスタン 昔はイケてたんですがね。今はただのおっさんなんで……。
メフィスト 確かに。今の太ったお前を見たら彼は悲しむだろうな……。
トリスタン ……(余計なお世話だ)。だから、見た目はいくら変わっても、私は私だと言っているじゃないですか。そんなことより、早く2枚目のカードを渡してくださいよ。
メフィスト ちょっと待て。いま着信が……。
もしもし、どうした?……うん。……ああ、そうだな。……いや、でもさすがにそれはないんじゃ……。
トリスタン どうしたんです? 今さらカードは渡せないなんて言い出さないでくださいよ? このまえ約束したんですから。
メフィスト ……オーケー。了解。
トリスタン 彼からの連絡ですか?! 彼はなんと言っていたんです?!
メフィスト いや、昔、トリスタンとイケメン1位を争っていたサッカー選手はもう一人いたと。
トリスタン 誰ですか、それは?
メフィスト フェルナンド・モリエンテス。
トリスタン モリエンテス? ねーよ! いや、それはないでしょう!
メフィスト そう思うだろう? だから俺も彼にそう言ったんだ。さすがにそれはない、と。
トリスタン モリエンテスよりは私の方がイケメンであると100パー断言できます。自分が断言できます。私の全盛期を見てください!
メフィスト モリエンテスよりはいいな。間違いない。
トリスタン でしょう? 彼はマドリディスタなんです?
メフィスト いや。リバウド、クライファート、サビオラの「トリデンテ」時代からのバルセロニスタだ。
トリスタン ああ、なるほど……。たしかにバルサには昔から、イケメンはあんまし……、ねえ……。
メフィスト まあ、そう思うよな……(ロナウジーニョ……)。
トリスタン ええ……(イニエスタ……)。ところで、これ何の話?
メフィスト いや、ぶっちゃけると、すぐカード渡しちゃったら一瞬で原稿が終わっちゃうから、なんか会話して文章を引き伸ばしてくれと彼が……。
トリスタン まったく無駄な話だったんかい! しかもリーガファンにしか通じない話を長々と……。
メフィスト でもほら、イケメンの写真をたくさん貼ると女性の読者が増えるかもしれないから……。ハッシュタグにも、ちゃっかり「#イケメン」って入れてるからね。
トリスタン ちゃっかりしすぎ! もういいから、さっさとカードをよこしやがれ!
メフィスト まあそう焦るなよ。無駄話のついでに、もう一つ与太話を聞かせてやろう。
秘数3の魔力
メフィスト お前はこの間、俺と彼との会話を立ち聞きしていたようだが、彼がそこで引用していた曲は、マニックスにしてもクラムボンにしてもハスキング・ビーにしてもスリーピース、つまり3人組ばかりだということに気づいていたか?
トリスタン 他にもいた気がしますが……。
メフィスト 俺はなにもこじつけを言ってるわけじゃない。スリーピースはバンド形態の最小単位なんだ。2人のリズム隊の上に和音が乗ればサウンドが成立する。最小人数で成立するバスケットボールとして競技化された3X3(スリー・エックス・スリー)が3人制なのも同じことだ。
「3」というのは特別な数だ。秘数3。
ピュタゴラスは 3 を完全数と呼び、「始まり、中間、終わり」を表現しているため、神の象徴と考えた。
ウィーン工科大教授で数学・物理学が専門のルドルフ・タシュナーはこう書いている。
キリシタンの教義、三位一体とはなにか? 神はつねに「父と子と聖霊」の三つのペルソナを持って現れる。つまり、「3」は多様性(diversity)を象徴する数字なのだ。多様性の数学的表現である divergence を記す際に使われるナブラ演算子(div A = ∇・A)は、なぜ逆三角形をしているのか?
トリスタン いや、それはさすがにこじつけでしょう!
メフィスト ならば、これはどうだ? ピュタゴラスの定理は知っているな?
トリスタン 「直角三角形の斜辺の2乗は他の辺の2乗の和に等しい」というやつでしょう?
メフィスト そう。数式では、「x²+y²=z²」と書き表される。だが、なぜ直角三角形の3辺の長さの関係を表す定理に偉大なピュタゴラスの名が与えられたんだ?
バスケットボールの三賢人、サム・バリーが考案し、テックス・ウィンターが発展させ、フィル・ジャクソンに採用された「トライアングル・オフェンス」(ローポストに立つセンター、ウイングに立つフォワード、コーナーに立つガードによって三角形が形成される)は、ブルズとレイカーズに合計3度のスリーピート(NBAファイナル3連覇)をもたらしたが、そもそもバスケット界においてスリーピートはなぜこんなに特別視されているんだ?
恩塚と鈴木の物語になぜ”第三の男”として日髙が必要だったんだ?
それに、俺も元はといえばミハエル、ガブリエル、ラファエルの三大天使に導かれて舞台に上がったんだ……。
トリスタン ずいぶん、「3」という数にこだわりますね。彼が昔好きだった選手の背番号も3だったとか。何か意味があるんです?
メフィスト 別に。ただの与太話だ。それに3だけじゃない。9も彼にとっては特別な数字だ。
トリスタン 3×3=9!
いや、ちょっと待ってください。9といえば、バルセロナで「神」がつけていた番号じゃないですか?!
メフィスト おいおい、今の時代にバルセロナで「神」と言ったら、今はパリへ去ってしまったサッカー界の神があまりにも有名だから、バルセロナで神が9番をつけていたと言ってもたぶん若者には通じないぞ……(19番なら19歳の時につけていたが……)。
それに、お前だってデランテーロ(センターフォワード)だったんだから、9番をつけてただろう。
トリスタン それは、私もチームではずっとエースをはってましたからね。背番号9に対するこだわりはぶっちゃけありました。
メフィスト 彼も9にこだわりがあるのさ。彼が偏愛するバンド(ソロプロジェクトともいう)の名前に「9」がつくのでね……。おっとこれ以上は言えない。この間もヒントを与えすぎだと言って、後で彼から怒られたからな。彼の文章を注意深く読んできた勘がいい読者ならば、これだけで合言葉が予想できてしまうとね……。
トリスタン また彼を怒らせたんですか? 彼も怒ってばかりで大変ですね。この間あなたと話していたときも、彼はずいぶん怒っていたみたいですし……。
メフィスト それが、今はそうでもない。基本的には、彼はこのところ機嫌がいいんだ。THCUウィザーズがインカレで6連覇したからな。決勝の前なんかずっとそわそわして、まるで90年代の”ラストダンス”のときみたいだった。神が6個目のリングと6回目のファイナルMVPを獲得したあのときも、彼は気が気じゃなかったよ……。
トリスタン 創部以来の歴史を書いてきたせいで、すっかりチームに感情移入してしまっているのはわかりますが、それにしても彼はウィザーズに肩入れしすぎじゃないですかね? 『定理』の第6部なんて、完全にファン目線で書かれてるじゃないですか。
メフィスト それも仕方ないだろう。恩塚のことを調べる過程で、必然的にウィザーズの試合を何試合も見ることになるだろう? するとそこでは、12番や18番が、ニッコニコでプレーしてるんだ。ファンになるなという方が無理な話さ。
トリスタン そうですか……。まあ、彼女たちのシックスピートは偉業ではありますけどね。アメリカのプロスポーツで、シックスピートを達成したチームは1チームだけでしょう。ファイブピートはヤンキース(野球)とカナディアンズ(アイスホッケー)も達成してますが……。
メフィスト そう。そして、シックスピートを成し遂げたもう一人の神*の背番号「6」は、今シーズンからNBA全チームで永久欠番になった。
トリスタン 今度は「6」ですか。3、6、9。結局すべて3の倍数。「3」の持つ力は強力だというわけですね……。
メフィスト なかなか面白い話だろう……?
トリスタン そう言えば、あの”答え”は見つかりましたか? なぜ日本には尾崎監督の本が一冊もないのか? アメリカにあって我々に足りないものは何か? という……。
メフィスト どこまで話していたかな?
トリスタン 彼が図書館に行ったというところまでは聞きました。
メフィスト そう。図書館で彼は2冊の本を借りた。
独立宣言と新ヘッドコーチ所信表明
メフィスト 一冊はベネディクト。そこには、こう書かれていた。
彼が設定した問いを考える上で、この本はうってつけだと思えたんだ。
もう一冊はトクヴィル。1831年にフランスからアメリカに渡り、9カ月間の視察旅行を行ったトクヴィルはこう書いている。
トリスタン ちょっと待ってください。トクヴィルは19世紀のアメリカについて書いているんですよね? アメリカでも過去の世代との断絶が問題になっていたんですか?
メフィスト ここに書かれているのはアメリカだろうが日本だろうが民主国家が共通に直面する課題だ。アメリカは当時、民主主義がもっとも発達した国だった。だから、トクヴィルにはそれがアメリカ固有の問題に見えたのかもしれない。
とにかく彼は”答え”を探す上で、アメリカ人が書いた日本論とフランス人が書いたアメリカ論を手掛かりにしようと考えた。
トリスタン 彼が手掛かりにしたのは、その2冊だけなんです?
メフィスト いや、もう一つある。1776年7月4日に採択された「アメリカ独立宣言」だ。
アメリカ建国の起源にあるこの文書がアメリカという国を読み解く上での最重要資料であることは言うまでもないだろう。そこでは、「すべての人間は生まれながらにして平等」であり、「生命、自由、幸福の追求」という3つの権利が、不可侵のものであると主張されている。
それにこの美しいカリグラフィーは眺めているだけでうっとりする。議長ジョン・ハンコックのサインもかっこいいしな。
トリスタン そういえば、ビール暗号を解く鍵になったのもアメリカ独立宣言の文言でした。
メフィスト ん? ビール暗号は解読されていないんじゃなかったか?
トリスタン ビールが残した3つの暗号文のうち、宝の内容が書かれた第2の文書だけ解読できているんです。それは”書籍暗号”と呼ばれる暗号で、一冊の本もしくは文書が丸ごと鍵になるものです。
暗号作成者はまず鍵となる文書のすべての単語に頭から順に番号を振り、各番号はそれがつけられた単語の頭文字を表すものとします。
独立宣言を鍵とした場合、たとえば、「4」という数字は、独立宣言の冒頭「When in the course of human events…」の4番目の単語「course」の頭文字「c」を表すことになります。
こうして、独立宣言の文言を鍵として第2の文書に書かれた数字の羅列を読むと、こう読めるのです。
この第2の文書が解読できたことで、ビールが埋めた財宝の価値がわかり、それは現在のドルに換算すると9,300万ドルに相当するという試算も可能になったわけですが、肝心の埋蔵場所が書かれた第1の文書が解読できていないために、財宝は発見されていないのです。
メフィスト 第1の文書は独立宣言が鍵ではないのか?
トリスタン そうです。第1の文書も書籍暗号だろうという見当のもと、独立宣言以外にも聖書をはじめ様々な本や文言が試されましたが、どれも解読する鍵とはなりませんでした。
メフィスト なるほどな……。多少強引にバスケの話題につなげると、現在のバスケットボール日本代表を読み解く上で鍵となる最重要資料は、その起源にあたる2021年9月22日に公開された「5人制男女日本代表 新ヘッドコーチ就任 所信表明」だと言えるだろう。
ここで述べられている恩塚のステートメントは非常に重要な文章で、文字通り日本バスケの歴史に残るだろうと彼は考えている。(もちろん、それを後世に引き継ごうという意志を持つ者がいたとしての話だが)。
したがって、この所信表明は第7部で詳細に読み解かれることになるだろう。
ただし不満なのは、一応このステートメントは日本バスケットボール協会のウェブサイトで公開されているんだが、ニュース記事を遡っていかないと発見できないことだ。これは公開していると言えるのか? もう少し人々に注意を向けてもらえるような公開の仕方があるんじゃないのか?
トリスタン 所信表明なんてそんなものでしょう。この文言を日本バスケ界にとって重要なものと位置づけたいならば、「所信表明」ではない、何か別の言葉で呼ぶ必要があるでしょうね。
メフィスト そういうことは彼に任せるとして、少しだけ内容にも触れておくと、このステートメントにおける恩塚の第一声がこれだ。
トリスタン さすが恩塚コーチ。日本代表チームが現在構成している選手やスタッフだけのものではなく、過去にそれをつくってきた人たち、さらには未来にそれを担っていく人たちのものでもあるということを考えているようですね。
メフィスト そう。過去の世代や未来の世代への視線は恩塚や代表チームのみならずウィザーズの選手たちにも共有されていると感じるし、彼はこのステートメントを高く評価しているが、俺は、その内容にも一つ不満がある。
トリスタン なんと! 恩塚コーチの文章にもケチをつけるつもりですか? いよいよ、”常に否定してやまぬ霊”の本領発揮ですね。
メフィスト あくまで俺個人の意見だが、俺が気に入らないのは、次の一節だ。
この一節は必要だったのか? ここで語られているのは、理想を語り、理想に向かって挑戦し続けることの困難と、その困難に立ち向かう者たちへのエールだ。そして当然のように、理想を語る際に「結果は重要ではないのか?」という批判を受けることが想定されている。
トリスタン それのどこが不満なんです?
メフィスト だってさ、恩塚は俺たちのことを信頼しなさすぎじゃないのか? そんなことはわざわざ所信表明なんかで言わなくてもいいことだ。代表チームの挑戦を見れば、俺たちはそこに彼ら/彼女らからのエールを読み取るだろうし、理想を語るリーダーに対して、「結果は重要ではないのか?」なんて凡庸な批判をするやつがいると思うか? 結果を重視するのは大前提で、その上でより高度な次元の話を展開しているのに。
トリスタン (小声で)あなたみたいになんでも否定したがる人が批判してくるんですよ……。
メフィスト 仮に代表チームのヘッドコーチに対してそんな無粋な横槍を入れてくる者がいたら、俺たちが黙らせる。それくらい俺たちのことを信頼してくれてもいいじゃないか。
トリスタン ずいぶんな自信ですね。そんな横槍を入れる人たちがもしもいたとして、本当に黙らせることができると思います?
メフィスト もちろん、やつらを黙らせるのは俺じゃない。
トリスタン ……?
メフィスト ”彼”がやる。
トリスタン ええっ?!(そんな、「ウチの仙道がやる」みたいにかっこよく言ってるけど、結局人まかせなんかい!)
……まあ、なんでもいいですが、それで結局彼は”答え”を見つけられたんですか?
メフィスト いいや。まだだ。まだ彼は本を読んでいる最中でね。
トリスタン そうですか。では、その答えは次回に期待するとして、そろそろ2枚目のカードの方を……。
メフィスト そうだな、そろそろいいだろう……。上を見てみな。
トリスタン また? ……ああ、これはデポルティーボ時代の私のカードじゃないですか。そしてあなたが言っていたとおり、このカードにも手書きの文字が書かれている。しかしこれはまた凝ったカリグラフィーですね。
気になるのは、左上の「3」という数字です。背番号というわけでもないし、この数字には何か意味があるんでしょうか?
メフィスト お前は彼が書いた予告を見たか? そこにも謎を解く鍵が隠されている。
トリスタン 見ましたよ。だいたいがこの三部作で扱うトピックを予告した文言だったと思いますが、ひとつ謎の等式がありますね。
ƐX3=NIИ
この式だけ意味がわかりませんでした。
メフィスト 後日、もう一度ここに来たら、3枚目のカードを渡す。そのときお前は全てを理解できるだろう。
トリスタン やっぱり後日なんですね……。いいでしょう。後日、また来ます。
(立ち上がりかけるトリスタンを引き止めるメフィスト)
メフィスト そう急がなくてもいいだろう。まだ夜明けまでには時間がある。もう少し与太話につきあっていけよ。これから話すのは、もう半世紀以上前の出来事だ。9月3日の午前9時にその試合は始まった……。
ミュンヘン五輪の日本代表
1972年9月、ドイツ連邦共和国ミュンヘン
ミュンヘンオリンピック、バスケットボール男子日本代表はグループリーグの最終戦でアメリカ代表と対戦した。結果は33対99で敗戦。66点差の大敗だった。
だが、いま語ろうとしている話は、この試合についてではない……。
ミュンヘン五輪で、9試合で191点を取り得点王になった谷口正朋は知っているな? 彼がバスケを始めたのは高校からだった。谷口が入学した高校がたまたまバスケの名門校で、181センチの身長に目をつけたバスケ部の監督が「バスケットをやってみないか?」と谷口に声をかけたんだ。最初のころは練習についていくのがやっとだったが、人より遅れてスタートした分、人一倍練習するしかないと毎日6時間シュートを打ち続け、その結果、高校3年時には日本代表候補に選ばれるまでになり、身長も186cmまで伸びていた。
トリスタン リアル桜木花道!
メフィスト 「落とさないシューター」それが谷口の異名だった。ミュンヘン五輪では谷口は26歳で主将を務めた。時の代表監督、笠原成元は五輪の1年前、谷口に1日1,000本のシュート練習を命じた。1,000本のシュートを打つのに3時間がかかった。毎日3時間のシュート練習を1年間続けた結果、最終的には1,000本中980本が成功するまでになった。谷口が現役だった時代から半世紀が経過したが、往年の彼を知る者は「今のBリーグにも、彼ほどのシュート力を持った選手はいない」と言う。
「私より才能のある選手はいくらでもいると思いますよ」と谷口は言う。「けれど、私よりシュート練習をした選手はいないと思っています」
そう言い切れてしまう谷口を見て思うのは、彼はその人生でいったい何本のシュートを”落としてきたのか"ということだ。
バスケは「習慣のスポーツ」と言われる。子供の頃から始めてその動きを習慣づけてきた者に後から追いつくのは容易なことではない。まったくのシロートから始めた高校生のときから毎日シュートを打ち続けてきた谷口は、日本一のシュート力を持つと誰もが認め、「落とさないシューター」と呼ばれたが、もしかすると谷口は日本一シュートを落とした男だったのかもしれない……。
日本リーグで2度のMVP、5年連続の得点王、9年連続のベスト5に輝き、オールジャパンでは10年連続優秀選手賞に選ばれた、左利きのピュアシューター。オリンピックで得点王を獲得した日本バスケ史に残る稀代の大エース。しかし、いま語ろうとしているのは彼の話でもない。ただ、もちろん当然のことながら、アマゾンや図書館で「谷口正朋」で検索しても「該当の書誌はありません」と言われるだけなので、彼のことを知らない若い読者のためにちょっと脱線したくなっただけだ。
これから語ろうとしているのは、もっと血なまぐさい話だ。
「ピピーッ!」
トリスタン イエローカード! 大丈夫ですか? noteの利用規約にある禁止事項に「わいせつ的、暴力的な表現行為、その他過度の不快感を及ぼすおそれのあるもの」とありますけど、アカウント停止されたりしません?
メフィスト さあな? 警告くらいは受けるかもしれんが、タルヘタ・ロハ(退場)まではいかないだろう。
トリスタン あのー……その、ちょいちょいスペイン語入れてくるの、なんなんです? 前から気になってたんですけど。
メフィスト リーガ中継で倉敷保雄の実況を聞いて育ったからな。自然とスペイン語が出てくるようになってしまったんだ。
トリスタン ああ、NBAといったら島本和彦さん、リーガといったら倉敷さんの世代ですもんね。
メフィスト リバウド、クライファート、サビオラの「三兄弟」とか、ジダンに対する「手鼻も粋だ!」とか、彼には試合実況中の名言がたくさんある。それに、「ディエゴ・トリスタン!」とか、選手の名前をフルネームで呼ぶところも、彼は好きだった。倉敷の実況を聞いてスペインサッカーの魅力にはまった人々が当時は大勢いたんだ。彼もその一人だった。
メフィスト おそらく倉敷はフットボールを「文化」だと考えている。だから実況の最中になるべく現地の言葉、スペイン語を使おうとしたり、スペインのフットボールをクラブがある各地方の歴史や風土、食文化などと一緒に紹介しようとしているんだろう。
トリスタン スペイン人として、そんな方が日本にいるというのはありがたいことです……。ところで、ミュンヘンオリンピックですが……。
メフィスト そう。ミュンヘン五輪と言えば、男子バレーボールが金メダルを獲得した大会だ。時の監督、松平康隆は、1964年の東京五輪で金メダルを獲得した女子代表と比べて、男子代表の注目度が格段に低い状況に発奮したんだな。そして、現在では世界標準となっている、Bクイック、Cクイック、時間差攻撃、ワンセッターシステム、バックアタック、一人時間差、フライングレシーブなどを選手とともに開発し、戦術に取り入れていった。松平はとても"独創的"な人だったんだ。このことは、後に尾崎正敏と比較する上で覚えておいたほうがいい。
トリスタン へえ。松平監督は偉大な監督だったんですね。
メフィスト そう。松平関連の書籍が20冊以上出版されていることからもそれは伺い知れるだろう。1970年代に出版された本のほとんどが絶版になっているのは惜しいことだが、何冊かは今でも図書館で読むことができる。
トリスタン ただ、いま語ろうとしてるのは松平監督の話でもないんでしょう?
メフィスト そのとおり。そろそろ本題に戻ろう。1972年のミュンヘンオリンピック、男子バスケットボールの日本対アメリカ戦の翌日に、その物語は始まる。
謎の組織 ”ブラック・セプテンバー”
9月4日の夜、ミュンヘン中央駅に集まった9人のパレスチナ人が夕食をともにした。彼らは「黒い九月」と呼ばれるグループのメンバーだ。黒い九月は謎に包まれた組織だった。彼らにはオフィスもなければ住所もなく、正式な指導者もスポークスマンもいなかったのだ。
1970年9月に起きたヨルダン内戦、ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(PLO)との内戦において、当時ヨルダンの人口の約60%を占めていたパレスチナ人はヨルダン軍による攻撃を受けた。そして何千というパレスチナ人が殺され、何千もの難民がシリアに逃れた。このヨルダン内戦は9月に起きたため、別名「黒い九月事件」と呼ばれる。
それからおよそ1年後、時のヨルダン首相が暗殺される。犯行グループは自らを「黒い九月」と名乗った。
その後、ジュネーブのヨルダン大使館で爆弾が炸裂し、在イギリスヨルダン大使は機関銃で襲撃を受けた。1972年5月に黒い九月のメンバー4人によってブリュッセル発のボーイング707旅客機がハイジャックされると、「黒い九月」の名は全世界に知られるようになるが、その実態は相変わらず謎のままだった。
PLO議長のアラファトは、黒い九月との関わりを問われてこう答えている。
「我々はこの組織についてまったく知らないし、その活動にはひとつとして関与していない。しかし、パレスチナの人々のために命を捨ててもいいという若者たちの気持ちは理解できる」
黒い九月は自らの謎を保つことで、その神秘的オーラ、プロパガンダの力を増大させていった。
1972年9月4日の夜に戻る。ミュンヘン中央駅に集まった黒い九月のメンバーは駅のロッカーの鍵を受け取った。ロッカーの中には8挺のAK-47アサルト・ライフルと7.62ミリの弾丸が詰まった弾倉、10個の手榴弾が入っていた。
彼らはそれぞれのホテルに戻り、オリンピック選手が着るようなトレーニングウェアに着替えて、9月5日の早朝4時10分に選手村のゲートに再集合した。
フェンスを乗り越え、オリンピック村コノリー通り31番にやってくると、彼らはダッフルバッグの中からAK-47を取り出す。
そこはイスラエル選手団が宿泊していた宿舎だった。
黒い九月のメンバーは、イスラエル選手団の2人を射殺した後、9人を人質に取り宿舎に立てこもった。彼らの要求は236人の囚人を釈放すること。囚人のうち234人はイスラエルの刑務所に、残る2人は西ドイツの刑務所に囚われている。
彼らは囚人の全員を9時までに釈放せよと要求した。もし要求通りにならない場合には9人の人質を1時間にひとりずつ処刑する、と。
ミュンヘン警察と西ドイツ政府は黒い九月のメンバーと交渉しようとした。
「人質を解放してくれれば、いくらでも望むだけの金を出す」
ミュンヘン警察の所長はそう申し出たが、「これは金の問題じゃない」と突き返された。
「我々の歴史を知っているだろう」西ドイツの内務大臣は言った。「第三帝国がユダヤ人に何をしたか……。ドイツで再び同じことが起きてはならないのだ」
そう言って、大臣は自分がイスラエル選手団の代わりに人質になることを申し出たが、 これも拒否される。
イスラエル政府も脅迫に屈して囚人を釈放することを拒否し、西ドイツ政府に対して人質解放に向けて全力を尽くすよう要請した。だが、当時西ドイツには対テロ作戦を専門とする部隊はなく、救出作戦に従事した警察官のほとんどは地元警察の一般警察官であり、テロ対策などの専門訓練を受けた経験がある者はいなかった。
3度に渡る最終期限の延長のあと、黒い九月側は飛行機で彼らと人質をエジプトのカイロに運ぶように、イスラエル政府は釈放した囚人たちをエジプトに連れてくるよう要求し、これが受け入れられなければ人質を全員撃ち殺すと言い渡した。
数時間後、黒い九月のメンバーと人質を乗せた2台のヘリが飛行機の待機する近くの軍用飛行場へ飛び立つ。そして人質救出作戦が始まるが、その場を支配していたのは恐怖と混乱と絶望だった……。
「テロリストの人数が報告と違うぞ!」
ヘリに乗り込むメンバーを見て、バイエルン州首相が声をあげた。
「この作戦は自殺行為だ」
ドイツ警察の特殊部隊から選ばれ、飛行機の中で黒い九月を待ち伏せるはずだった13人の警察官は、人質を乗せたヘリが飛行場に到着する15分前に任務を放棄して飛行機から降りた。
「どうなってるんだ?」
飛行場の管理棟に隠れて待機する西ドイツ高官が近くにいた警察官に聞いた。ヘリが到着し、黒い九月のメンバーが飛行機に乗り込んでも、予定されていた警察による襲撃が起きないからだ。
「我々にもどうなっているのかわかりません」
管理棟にいた誰も13人の警察官たちが任務を放棄したことを知らなかった。
一方、飛行機に乗り込んだ黒い九月メンバーは、明かりもついていない空っぽの機内を見て異変に気付き、ヘリに引き返す。そのとき、管理棟の屋上に待機していた警察の狙撃手がメンバーを狙撃し、銃撃戦が始まる。黒い九月はやみくもに機関銃を撃ちまくり、管理棟に向かって手榴弾を放り投げる。照明機のほとんどが粉砕されてヘリは闇の中に沈み、人質とメンバーの識別もできない。何人が負傷し何人が死亡したのかもわからなかった。
現場の警察官は装甲車が到着するまで待機するよう命じられるも、銃撃戦が始まって10分も経ってから出動が要請された装甲車は野次馬の車が連なる交通渋滞に巻き込まれて全く前に進めない。
「どうするつもりだ?! 人質を助け出せ! 何かしたらどうなんだ?!」
ドイツ連邦国境警備局の重役は地元の警察官に詰め寄り、
「なんの命令も受けていません」
地元の警察官は動こうとしなかった。
それから1時間20分後、ようやく4台の装甲車が飛行場に近づいてくる。それを見た黒い九月のメンバーは人質が乗ったヘリの一台に手榴弾を投げ込み、燃料タンクに引火したヘリは炎上した。
もう一台のヘリにはメンバーの一人が飛び込み、至近距離から5人の人質に機関銃を乱射した。その後、彼らは闇の中に走り出し、ドイツ警察は1時間以上も彼らを追い回して、生き残ったメンバー3人は全員逮捕された。
その間、一台のヘリは燃え続けていたが、飛行場に待機していた消防士たちは誰一人ヘリに近づこうとせず、炎をあげるヘリを見つめていた。そして、黒い九月メンバー全員が逮捕された後にようやく消化活動を始め、ヘリの火を消し止めた。
9人の人質は全員死亡した……。
トリスタン …….。
メフィスト もしもあのとき……。いや、歴史に”もしも”はない……。
トリスタン ……?
メフィスト この事件の後すぐ、ドイツ連邦警察に対テロ特殊部隊 GSG-9 が設立された。
トリスタン GSG-9? なぜ「9」なんです?
メフィスト この部隊は連邦国境警備隊の指揮下にある第9国境警備群(GrenzSchutzGruppe 9)として発足したからだ。
トリスタン うーん……。
メフィスト この事件で、黒い九月の要求は果たされなかったが、彼らの目的は達成された。彼らはこう考えていたんだ。
パレスチナ人民の存在を全世界に知らせたい。
ミュンヘンに詰めかけた前代未聞の大勢のカメラやマイクを使って、パレスチナの苦闘を世界の人々に見せてやりたい。
あの日、約9億人がこの事件をテレビで見たと考えられている。
1948年のイスラエル建国とそれに続く戦争以来、100万人以上のパレスチナ人が難民となっていたが、世界の大国は彼らの窮状をほとんど無視してきた。誰も彼らに注意を払おうとしなかった。
生き残った襲撃メンバーの一人は、ドキュメンタリー映画 "One Day in September" のインタビューで、こう語っている。
「ミュンヘン以前は、世界は私たちの闘争について何も知りませんでしたが、その日、パレスチナの名前は世界中で繰り返されました」
トリスタン なるほど。あなたがなぜ黒い九月の話をしたのかわかりましたよ……。
メフィスト そしてミュンヘンの事件からおよそ30年後の2001年9月、今度はアメリカがテロの標的になる。
トリスタン 9.11 アメリカ同時多発テロ事件ですね。
メフィスト そう。だが、いま話したいのはそのテロの話ではない。アフガニスタンで数々の映画を撮ったイランの映画監督、モフセン・マフマルバフが書いた文章についてだ。
9.11 とアフガニスタンの石仏
トリスタン ああ。9.11のあと、アメリカはテロを起こした組織「アルカイダ」を匿っているとしてアフガニスタンに侵攻したんでしたね。
メフィスト アフガニスタンは当時イスラム教スンニ派のタリバンが政権をにぎり、バーミヤンの石仏など数多くの記念碑や歴史的遺物を破壊していた(アメリカ同時多発テロの直後にはニューヨークの自由の女神像もテロの標的になるという噂が絶えなかった)。
バーミヤンの石仏が破壊されたときにアフガニスタンは全世界の注目を集め、芸術家や文化人など多くの人々が非難の声をあげたにもかかわらず、今まさに深刻な飢饉の結果100万人のアフガン人に死の危険が差し迫っている実態については誰も言及しなかった。そのことに憤ったマフマルバフは、2001年3月、ながい長い文章を発表した。
この憤りに共感しない人なんているのか?
そして彼はあの有名な一節を書く。
トリスタン 言いたいことはわかりますよ。あなたはこの前も偉大な尾崎監督の本が一冊もないことや、尾崎監督たちの名前が知られていないことに憤っていましたけど、残念ながらその怒りは共感されないですよ。なぜなら、そこにはパレスチナやアフガニスタンのように苦しんでいる人はいないからです。尾崎監督の本がなかろうが、彼らの名前が知られていなかろうが、無関心でいることに罪悪感を感じることはないでしょう?
メフィスト たとえそこで人が殺されていなくても、飢餓で苦しんでいる人がいなくても、少なくとも尾崎は同胞だろう? 恩塚や鈴木は仲間だろう?
トリスタン 仲間だと思われてないんじゃないですか? 私は日本人ではないのでよくわかりませんが、話を聞く限り、その可能性は大いにありうるんじゃないかという気がしますね……。
そもそも、仲間と仲間以外をどこで分けるか、誰に共感し誰には共感しないかを決めるのはかなり恣意的でしょう。同じ学校の先輩後輩なら仲間だと思う人もいれば、同じ職業集団、たとえばバスケットボール業界とかコーチ仲間には共感を感じるという人もいるでしょう。
同じ国の国民、同じ民族でも仲間とは限りません。ヨルダン”内戦”で、パレスチナ人は同じアラブ人から攻撃を受けました。バルセロナにはFCバルセロナは応援するが、スペイン代表は応援しない、ワールドカップには興味がないというサッカーファンが多数います(カタルーニャ州には特殊な政治事情があったりもしますが……)。
歴史を見れば、アメリカ独立宣言に書かれた「生まれながらにして平等」な「すべての人間」の中に黒人奴隷やアメリカ先住民族は含まれていませんでした。
「よきサマリア人のたとえ」で、強盗にあった旅人を助けたのは同胞ではなく異邦人であるサマリア人です。
メフィスト だからどうした? 共感するかしないかは個人の自由だ。だが、マフマルバフがあの文章を書いて発表しなければ、彼が2001年にアフガニスタンの悲惨な現状を知ることはなかった。あの文章がなければ共感するしないの選択肢すら与えられなかったんだ。
もちろん、俺の嘆きも憤りも”今日の世界”では共感されないんだろう。そのことはこの3週間でよくよく思い知った。だが……。
だからどうした?
恩塚にしても、彼にしても、彼らは今生きている人たちだけに語りかけているわけじゃないだろう?
トリスタン それはそうなんでしょうけど……いま生きている人も大事ですよ。
メフィスト じゃあ、ミュンヘンとは対照的に、生きのびた人の話をしよう。これは例の「9」がつく”バンド”に彼が執着する原因になったエピソードだ。
「ピピピーッ!」
トリスタン これまた大丈夫ですか? また喋りすぎだって後から彼に怒られません?
メフィスト この程度なら話しても大丈夫だろう……。
世界の終わり
1999年9月、茨城県つくば市
時は前世紀末。まだコンパクト・ディスクと呼ばれる円盤が重宝されていた時代の話だ。その日、彼はつくばセンターのWAVEで買ってきた例のバンドの新譜を部屋で聴いていた。それは、ちょうど2曲目 ”The Day The World Went Away” を聴きはじめたときのことだ。彼は彼の住んでいるアパートから60kmほど離れた場所にある核燃料加工施設が臨界事故を起こし、放射能が漏れ出した可能性があるというニュースを聞いた。彼はその時、真っ先にあの有名なフランス人の錬金術師/占星術師が書いたという予言の書を思い浮かべた。そのとき響いていた陰鬱すぎるほど陰鬱な曲が、彼には黙示録のように聞こえた。彼はそのとき、その曲のタイトルにあるように世界が消滅する可能性、世界全体とは言わないまでも、彼自身が消滅する可能性を考えていたんだ……。ところが、その後数曲ダウナーな曲が続いた後、ある曲で急にビートが変わった。その曲の歌詞はこうだ。
もちろん世界は消滅しなかったし、彼も消滅しなかった。ただ、そのとき流れていた曲は彼にとって人生のアンセムになった……。
トリスタン 1999年の9月だったんですね? 彼が「9」のつくバンドのCDを買ったのは……?
メフィスト そう。そして彼はまた生き残った。
トリスタン また?
メフィスト 彼には18歳の時につくば市で出会い、同じ夢を持っていた同い年の友人がいたんだ……。
トリスタン なるほど……。だから彼は今のうちに恩塚コーチや鈴木コーチ、尾崎監督の物語を書こうとしているんですね? それに、あなたがいま生きている人だけが大事なのではないという理由も、納得しました。
メフィスト それだけじゃない。なぜ彼は恩塚と鈴木の物語にこんなにも惹かれたんだと思う? 彼は、ちょっとだけ彼らのことが羨ましいんだ……。
NBAのファンだった彼がヨーロッパのサッカーを見るようになったのは、ユナイテッドファンだったその友人の影響だ。もしその友人と出会っていなければ、彼がヨーロッパのサッカーに興味を持つことはなかっただろうし、倉敷保雄の名実況がなければ、彼がスペインサッカーにはまり、ディエゴ・トリスタンについて語ろうとすることもなかっただろう。つまりお前は今ここに存在していないということになる。ヒーローも語るものがいなければ、存在できないからな。
トリスタン 彼の友人と倉敷さんに感謝しなきゃですね……。
そうだ。そういえばこの間、謎を残したまま死んでしまったビール以上に人騒がせな男の話がどうとか言ってませんでした?
メフィスト ああ。忘れるところだった。その男の名前は、ピエール・ド・フェルマー。フランスはトゥールーズの裁判官であり、アマチュアの数学者だった……。
最終定理とカバラの数秘学
メフィスト 時は17世紀。スピノザが生きていた時代の話だ。フェルマーはギリシャの数学者ディオファントスの大著『算術』の二巻目、ピュタゴラスの定理に関する説明を読んでいるとき、ピュタゴラス方程式に似ているが、一つも解を持たない方程式を思いついた。
xⁿ+yⁿ=zⁿ nは、3、4、5……
この方程式を満たす3つの数は存在しない。
フェルマーは読みかけの『算術』の余白にこの思いつきを記し、その後何世代にもわたって数学者たちをこの命題の証明に駆り立てることになるメモを書き添えた。
そしてフェルマーはその「真に驚くべき証明」を隠し持ったまま、1665年にこの世を去った。
この「フェルマーの最終定理」と呼ばれる命題を証明すべく、3世紀の間に幾多の試みがなされてきたが、これを完璧に証明できたものは一人としていなかった。1994年にある数学者がなしとげるまでは。
トリスタン 証明されたからこそ、その命題はフェルマーの最終”定理”と呼ばれるようになったんでしょう? それにしても3世紀とは気が遠くなるような時間ですね……。
メフィスト 何世代にもわたって、フェルマーが残した謎は数学者たちを魅了してきた。しかしコーシー、オイラー、クンマーはじめ、多くの名だたる大数学者たちですらその証明に挫折したあとで、ゲーデルが、「そもそも証明など存在しないかもしれない」と言い出した。そして多くの数学者がこの証明が可能かどうかもわからない命題に取り組むのは時間の無駄だと思うようになっていった……。
トリスタン ところが、1994年に証明がなされたということは……?
メフィスト そうだ。この歴史上に名を残す数々の偉大な数学者たちですらなし得なかったフェルマーの定理の証明、その途方もない夢にあきらめずに挑み続けた数学者が一人いたのだ。その数学者の名前は、『定理』の旅の終わりに彼によって語られることになるだろう。
トリスタン フェルマーは嘘つきじゃなかったんだ! 定理の証明は、本当にあったんだ!
メフィスト だからといって、ビールが嘘つきではない保証はないがな……。
ビールの宝が本当にあるのかどうか、実際にはわからん。おまえが探している聖杯もあるのかどうかわからないし、彼が探している問いの答えも、バスケットボールの新たな定理も見つかるかどうかわからない……。
トリスタン それでも、挑戦している人たちはいる……と。
メフィスト ところで、ビール暗号の解読者たちは、数を言葉に復元し、ビールが言葉から奪った意味を回復しようとしているわけだが、それとは逆に言葉を数に変身させようとする魔術師たちもいる。
聖書の言葉から数を読み取ろうとするヘブライのカバリストたちだ。
ヘブライ文字には数字がない。ヘブライ語では数字と文字は同じものだ。
ユダヤ人は1にはヘブライ文字 א(アレフ)を、2には ב(ベート)を、3には ג(ギメル)をというように数に対してアレフベートの頭から順番に文字をあてた。この数と文字の対応関係があるために、ヘブライ語で書かれた聖書は全ての言葉を数として読むことができるのだ。
このとき、ビール暗号の解読と逆の現象が起きる。彼らは聖書から隠された数を読み取る。こうして生まれたのがカバラの数秘学だ。
カバラの数秘学でもっとも有名なものは、ヨハネの黙示録の次の一節だろう。
一般に、この一節はキリスト教徒を迫害したローマ皇帝ネロの登場を予言したものだと考えれられている。ヘブライ文字で綴ったネロのフルネームは、その文字を数字に置き換えて合計すると666になるからだ。だが、もちろん解釈は無数にありうる。
たとえばオカルト的な解釈の一つとして、これをノストラダムスの予言詩と結びつけるものがある。
あるアメリカ人が、「666」をひっくり返すと「999」になる(「666」は「999」の反転鏡像である)ことから、この詩篇とヨハネの黙示録を結びつけ、1999年人類滅亡説の根拠とした。
そもそもなぜ「666」をひっくり返す必要があるのか、「1999」の「1」はどこから出てきたのかなんの説明もないし、完全なオカルトでしかないが、まあ、どう解釈するかは人の自由だろう。
キリストも言っている。
「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」
タルムードは律法の解釈をめぐるユダヤ教のラビたちの論争や主張をまとめたものだが、つまりラビたちは何世代にもわたり何度も律法を読み替えてきたと言える。それが今では原典である律法と同様に聖典として扱われている。
トリスタン 解釈が無限にできるなら、論争もつきないでしょうね……。それにしてもカバラの数秘学では言葉がすべて数として読めるというのは面白いですね。ピュタゴラスもこう言っています。
「ありとあらゆるもの、われわれ自身を含めた全宇宙は数である」
メフィスト ところが数と意味を対立させる考え方の方が一般的だ。ある哲学者は、「20世紀前半の大量死の本質は、犠牲者を数に還元し、その生と死から名前と意味を奪うことにある。それゆえ、その記録においてはまずは名前(固有性)の回復が重要になる」と書いた。
トリスタン ああ……。あなたが頑なに”神”の名前を言わないのは、「神の名をみだりに唱えてはならない」というモーセの十戒に倣ってのことかと思ってましたが、ミュンヘン事件でも黒い九月のメンバーや9人の人質の名前を誰ひとり言わなかったし、ウィザーズの選手たちも名前で呼ばずに12番や18番と呼んでいましたね。
メフィスト そう。すでに卒業している選手なので誤解のないように一応補足しておくと、12番というのは、木村”ただただ可愛い”亜美(©︎野坂葵)のことだ。
彼女に敬意を表さないやつは不敬罪で処刑してやる
トリスタン だいぶ言葉に熱が入ってきましたね。
メフィスト 当然だろう。木村亜美は「ただただ可愛い」(©︎野坂葵)が、「ただ可愛い」わけではない。彼女は今後数十年、大学バスケ界で語り継がれるであろう偉大なチームを率いたキャプテンだ。2021年のウィザーズで……
トリスタン ああっ! それ以上言うと、第7部で書くことがもう……。
メフィスト えっ……ダメ?
トリスタン いいえ……。もう言いたくてしかたないんでしょう? どうぞ、止めませんから、気のすむまで語ってください。ただし、ここで語るとあまりにこの原稿が長くなってしまうので、別の場所を用意しました。
メフィスト 別の場所だと? 俺をどこに連れて行こうと……
トリスタン 急いでください。もう入場曲が聞こえてきました。このピアノのシンコペーションは、”シリアル”だ!
この曲はシアトリカルでリアル。
俺の言ってること分かる?
ならば、大鴉は何の象徴?
預言者? 邪悪なるもの?
さあ、メフィスト様の登場!
いいえ、そこはあなただけの円形劇場。
あなただけの演台。
そこで思う存分語っちゃってください。
それでは、いってらっしゃい!
(20分後。書斎に戻ってくるメフィスト)
トリスタン おかえりなさい。もう気がすみました? 語り残したことはないですか?
メフィスト ああ。もう十分だ。語り落ちたことがあるとすれば、『定理』の第7部で彼が補足してくれるだろう。
トリスタン あなたの演説を聞いて、私も木村選手の偉大さを理解しましたよ。もし彼女に、私の仲間に敬意を表さないやつがいたら不敬罪で処刑してやります。
メフィスト おっ、今日初めて騎士らしいことを言ったな。彼女はお前の仲間というわけか?
トリスタン 誰に共感するか決めるのは個人の自由。でしょう?
メフィスト そのとおりだ。お前は正しい。
トリスタン あなたが先ほど演説で話していたように、たしかに西洋人は記念碑が好きですね。ドイツには、街のいたるところにホロコーストの記念碑があります。そして記念日には花を供え、ろうそくが灯される。
メフィスト 人は記憶の風化を防ぐために記念碑を建て、記念日を作って祝典あるいは追悼を行う。
アメリカは毎年7月4日を独立記念日として祝う。現在、アメリカの祝日の大半は月曜日に設定され、週末と連続して3連休になっていることが多いが、独立記念日だけは7月4日に固定されている。この日はアメリカという国にとってあまりに重要で、曜日によって変更するなんてことはできないんだろう。
日本にだって記念碑も記念日も無数にある。
けれど、そんなものなくたって俺たちは忘れない。
一年に一度、必ずあの日はめぐってくる。
だけど彼らは二度と歳をとらない。
あの友人は永遠に21歳のままだ……。
忘れ薬なんてない。
……そうだろ?
メフィスト 俺はこの前、たしかにこう言った。
ウッデンの88連勝も、サミットの通算1,098勝も、そんなものはただの数字でしかない。彼らの人生に意味を与えるのは言葉だ。
だが……
数字を使わずに彼らの偉大さを語ることもできない。
数字を使わずにあの国の惨状を伝えることもできない。
数字を抜きにあの日を記憶することはできない。
数字なしにあの人を思い出すことはできない。
数字がなければ物語を語ることはできない。
トリスタン たしかに……。でも、いくら数がなければ何も語れないとは言え、彼は数字にこだわりすぎじゃないですか? 3にしても、9にしても。
メフィスト だいたいバスケファンなんてのはスタッツだのレーティングだの”数字”を見るのが大好きな連中の集まりだろう。彼も新しい選手を覚える時は、名前と背番号と身長をセットで覚えるようなタイプの人間だ。日本代表全員の背番号と身長はもちろん、数百人のNBA選手の背番号と身長も(加えて数百人のサッカー選手の背番号と身長まで)暗記しているような……。
トリスタン へえ……。じゃあ、彼が好きだったという背番号3のNBA選手の身長は?
メフィスト その答えは簡単だ。その選手はNBA史上最も身長の低い得点王になったんだ、たった183cmで……。あっ!
トリスタン ハハハ。ひっかかりましたね。
メフィスト 小賢しいことを……。まあいいだろう。どうせもう一度ここに来たとき、お前はすべてを理解することになる……。
トリスタン そのとき、すべてがわかるんですね? 第七の門を開く合言葉も、何もかも……。
メフィスト ああ。それと、今度来たときには、1999年9月にリリースされた彼の人生のアンセムを聴かせてやろう。
トリスタン いいんですか? そんな大事な曲をこんなところで使ってしまって。
メフィスト 別に構わないさ。彼の人生のアンセムは何十曲もあるんだ。
トリスタン ……後日、ですね……?
メフィスト そう、すべては後日だ……。
トリスタン わかりました。では、旅支度を整えて、また来ます。
(トリスタン、立ち去る。)
メフィスト ……行ったか。
まあ、懲りもせずまた来てくれるというのはありがたいことだ。たとえこの後誰も訪れる者がなく、訪問者があいつひとりだけだったとしても少なくとも一人は第7部の読者がいるということだからな。彼の理想主義のせいで誰にも読まれないんじゃ、書かれた言葉たちも報われない。
「3」が多様性の象徴だとしたら、「1」は存在の象徴だろう。かつて、1は2より「もっともっと悪い数」だと歌ったアメリカのシンガーソングライターがいたが、それにしても、0と1では大違いだからな……。尾崎の本を探してみれば明らかなように、ゼロは”worse”どころの話じゃない……。
言ってみれば、『定理』に書かれた言葉たちを”救出”するのが俺の役割だ。もしかしたら誰にも読まれないかもしれない言葉たちを救うために俺はこの三部作を通して、いくつもの謎(あるいは問い)をかけることで人々の注目を集め、これまで『定理』に書かれてきた内容を振り返り、来るべき第7部の内容を予告し、読者の期待を煽れるだけ煽って彼らを言葉たちの元へ導こうとしているわけだ……。
「どんなに悲鳴をあげて叫んでも、もう手遅れ」だって? いやいや、トム、それはおかしいだろ? 手遅れだって本気で思ってるのか? すでに手遅れなのだとしたら、なんのために彼は生き残ったんだ?
20年後のミュンヘン事件
1972年9月のミュンヘンの物語をいま俺たちが知ることができるのは犠牲者の家族が粘り強くその情報開示を求めたからだ。
事件のあと何年も遺族は解剖報告書や弾道検査の報告書を見せてほしいとドイツ政府に要求してきた。だがドイツ政府は、誰の責任で作戦が遂行されたのか、飛行場で誰が誰を撃ったのか、彼らがどうやって死んだのか、何ひとつ答えないまま、数年後、現場の証拠はひとつもないと言い出した。
もちろん遺族は納得しなかった。これほど大きな事件が、その後なんの調査もされないなど考えられない。
遺族たちは毎年めぐってくる追悼式でミュンヘンで実際に何が起きたのか真実の公開を要求し続けた。
彼女たちは西ドイツと友好な関係を保ちたいと考えるイスラエル政府からも援助を得られなかった。彼女たちは一個人としてドイツの役人に直接訴えるしかなかったのだ。
1976年に西ドイツの外相がイスラエルを公式訪問したときも、外相は遺族に会おうとしなかった。遺族の代表が会ってくれなければ飛行機の離陸を妨害するというテロ行為を予告して脅すと、ようやく西ドイツ外相は彼女に15分だけ会うことを許した。この会合で彼女は、あの事件についてこれまで開示されていない情報をすべて開示すること、生き残った家族に対する補償、犠牲者の記念碑を建てることを要求した。回答は書面で送ると外相は答えた。
それから10ヶ月後、西ドイツ政府の答えがイスラエルの外務省に届く。
「ミュンヘン事件に関する書類は西ドイツ政府には存在しない」
それが彼らの公式回答だった。記念碑の建立については一言も触れられていない。
その後15年、ミュンヘン事件は、犠牲者たちの死は謎のままだった……。
手遅れだ? もう何を悔いても遅すぎる?
だからどうした?
1992年、20回目の追悼式を控えたある日、遺族代表はドイツのテレビ番組に出演し、ミュンヘン事件の真相を、夫の死の真相を知りたいのだとドイツの視聴者に訴えた。
彼女たちの中では事件はいまだに風化していない。真実を知りたいという欲求も決して衰えることはなかった。
2週間後、ドイツの役人だという匿名の人物から彼女のもとに電話がかかってきた。
「あなたの言うとおり、情報はある。私はその情報にアクセスできる」
そして匿名のドイツ人から彼女へ解剖報告書や弾道検査報告書を含む事件に関する書類が送り届けられた。それらは20年間、バイエルンの書庫にしまいこまれていたものの一部だった。
その後、彼女たちは書庫にある全ての資料を入手した。その量はダンボール箱および木箱20箱にもおよび、合計3808のファイルに収められた何百という調査報告書、何万という書類、900枚の貴重な写真も含まれていた。
それらは、20年におよぶ彼女たちの粘り強い訴えがなければ、誰にも読まれることがないまま永遠に書庫で眠っていた書類たちだ……。
そこにあった解剖報告書によってわかったことがある。
黒い九月メンバーが放った手榴弾によって炎上するヘリを消防士たちが何もせずただ眺めていたとき、その中にいた人質のひとり、ダヴィッド・ベルゲルはまだ生きていた。銃撃を受けてはいたが弾はかろうじて急所を外れ、致命傷には至らなかったのだ。ベルゲルの死因は煙を吸い込んだことによる一酸化炭素中毒だった。
もしもあのとき、消防士たちがすぐに火を消し止めていたら、ベルゲルは死なずにすんだ……。
もう手遅れなんて、誰が決めたんだ?
ずっと家に引きこもって、ただ眺めてるだけか?
「2+2=5」だと言われようが、「証明など存在しないかもしれない」と言われようが、「政府に書類は存在しない」と言われようが……、真実を求め続けるやつしか、答えにはたどりつけねえんだよ!
おっと、また着信だ。
……もしもし、俺だ。……ああ。トリスタンならさっき帰ったところだ。どうしたんだ、そんな怖い声を出して? ちょっとお前の身の上話をしたせいで怒ってるのか?
……なに?! 3枚目のカードが盗まれた?! まさか……。まさか、トリスタンが……?!!
(第3部へ続く)
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