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トリスタン文書 〜バスケットボールの定理を求めて〜 (1)

本書は『メイキング・オブ・バスケットボールの定理』の続編として、また『バスケットボールの定理』第7部へと読者を誘導する地図として書かれたが、それ自体独立した物語であり、ボブ・マーリーの人生の終わりに遺言のように録音され、今なお世界中で歌い継がれている彼のアンセムへのオマージュでもある。

俺たちが何もせず、ただ眺めている間に
どれだけの預言者たちが殺されてきたんだ?
誰かが、それはまだ途中でしかないと言った。
俺たちは”その本”を書き上げなきゃいけない。
ーボブ・マーリー "Redemption Song"

選手がミスを犯したときはいつでも、すぐに引っ込めたいと思うものです。けれど彼らを叱りつけ、取り返すredemptionチャンスを与えずに座らせたりしてはいけません。
ーパトリシア・”パット”・サミット

第1部 トリスタン・トンプソンの巡礼

賢者の石を持つ名将

書斎で眠るメフィスト(仮名。a.k.a 常に否定してやまぬ霊)。
トリスタン(206cm。C / PF。円卓の騎士の一人)、やってきて戸を叩く。

メフィスト 俺の眠りを邪魔するやつは誰だ?

トリスタン 夜分に申し訳ありません。我が名はトリスタン。一世紀以上ものあいだ誰も解明しえない”バスケットボールの謎”を解くという聖杯を探す者です。

メフィスト 思い上がるな! お前ごときが聖杯を手に入れようなど、百年早い!

トリスタン さすが先輩。初対面でいきなり否定から入るあたり、まったくブレてませんね。さすがっす。

メフィスト ふん。そんなおだてには乗らんぞ。俺をおだててどうしようというんだ?

トリスタン いやはや、見抜かれてましたか。では単刀直入に言いましょう。聖杯探しの旅に出た私は第六の門内を探索するうちに、そこに第七の門が築かれているのを発見しました。ですが、門番が中に入らせてくれない。門をくぐるには合言葉が必要だというのです。そこで、あなたに合言葉を尋ねに来ました。

メフィスト なぜ俺が合言葉を知っていると?

トリスタン あなたは先日、彼と親しげに話していましたよね? 合言葉を考えたのは彼でしょう?

メフィスト 彼の考えていることは俺にもわからんよ。なにせ気まぐれな人だ。「今の言葉を黙認するならば、私は何のために文章を書いているのか」と言って、書きかけの原稿を突然放り出し、まったく新しい原稿を書き始めるような人だからな。
その新しい原稿を投稿した後には、もうこの先『定理』を公開するのはやめると言っていたくらいだ。『探求』もあの悲劇の第2部も、著者の生前には出版されなかったのだと言ってな。すぐに自分を偉人と重ねたがるのは彼の悪い癖だ。

トリスタン 公開するのはやめる……? では……!

メフィスト 安心しろ。お前の見た門は張りぼてではない。門の向こう側はちゃんとある。

トリスタン よかった……。

メフィスト そこには、恩塚や鈴木が生まれる前、彼がこれまで書いてきた歴史以前、言うなれば日本バスケの「神話の時代」が描かれているだろう。

トリスタン ……! ということは、あの噂は本当なのですね? 第七の門の内側では、賢者の石*を持っていたと言われる伝説の名将の秘法を再現しようとしているという……。

*あらゆる物質(選手)を黄金にしたり、万病(選手の欠点)をなおしたりする力があると信じられた物質で、中世ヨーロッパの錬金術師たちが探し求めた。

メフィスト クロノロジカルに書き進められている『定理』では、当然このあと2021年のオリンピックが、女子代表の銀メダルという快挙が語られることになる。そして、そこでの成果と恩塚や鈴木の仕事を相対化するために新たにもう一人のコーチが召喚される。

トリスタン もう一人のコーチ?

メフィスト 尾崎正敏だ。

トリスタン ヒエ~ッ!!

メフィスト それによって物語の時代は一気に半世紀を遡ることになる。

トリスタン でも、いくらなんでも恩塚コーチや鈴木コーチを尾崎監督と並べて語るなんてのは……。

メフィスト 大胆すぎるって? そんな常識は彼には通用しない。なにしろ彼は日本バスケ界とは縁もゆかりもない、バスケの知識も選手としての経験もない、シロートだからよ!!

トリスタン そのセリフって、最強ですよね……。

メフィスト 彼との会話を立ち聞きしていたなら覚えているだろう。彼は、自分のようなシロートが偉そうに恩塚や鈴木や日髙について語るのがすっかり恥ずかしくなってしまった。それでいっときは文章の公開をやめてしまおうかと考えたが、尾崎について調べていくうちに、考えが変わった。彼はシロートであることに居直り、物語の続きを公開することを決意する。ひとことで言うと、彼は失敗を恐れないことにしたんだ。

トリスタン それは思い切りましたね。いったいどんな心境の変化があったんです?

メフィスト 彼の心を変えたのは、アメリカのある偉大なバスケットコーチの言葉だった……。

「ヒーロー」も語る者がいなければ

メフィスト まずはこの問いから始めよう。歴史上、最も偉大なバスケットコーチは誰だ?

トリスタン それはジョン・ウッデン以外ありえないでしょう。"The Greatest Coach Ever"  アメリカ人なら子供でも知っていることです。何しろ彼は、バスケットだけでなくあらゆるスポーツの中で20世紀最高の指導者と言われている人ですからね。

メフィスト では、なぜ彼は、そんなに偉大になれたんだ? NCAAで7連覇を含む10回の優勝を達成したから? NCAA男子バスケットボール記録の88連勝を記録したから……?

そうじゃないだろう?

アメリカでジョン・ウッデンの本を探そうと思えば、いくらでも手に入る。ウッデン自らが書いた著作だけでも何冊もあり、第三者が書いた評伝や彼の言葉を紹介した本なども含めるとその数は十冊や二十冊ではきかない。そのうちの何冊かは日本語に翻訳され、日本でも出版されている。
俺たちはいくらでも彼の言葉に、彼の思想に触れることができる。
ウッデンだけではない。これまで『定理』に登場したアメリカの名将たち、コーチKやジェイ・ライトの著作もあるし、女性のコーチだったら、テネシー大学女子バスケットボール部のヘッドコーチとして、NCAAで8回の優勝を誇り(それはウッデンの10回の優勝に次ぐ記録だ)、男女を通じてNCAAバスケットボールのコーチとして初の1,000勝を達成し、ロサンゼルス五輪で女子アメリカ代表を初の金メダルに導いたパトリシア・サミット。彼女は共著者とともに3冊の本を書いている。

トリスタン パット・サミットの本なら、私も読んだことがありますよ。1997-98年、39勝無敗という史上最高の成績で女子バスケでは前人未到のNCAAトーナメント3連覇を達成したシーズンについて書かれた本です。このときのテネシー大は、「女子バスケのプレーのスタンダードを変えてしまった」とまで言われていますが、サミットは本の中で、このチームは彼女自身をも変えたのだと語っています。そしてこの本は「女性スポーツ文学における会心のブレークスルー」という評価を受けています。

メフィスト 一方、尾崎の記録を見てみよう。1956年に大日本紡績の監督に就任した尾崎正敏は、シャンソン化粧品でWリーグ10連覇を達成した中川文一や、いすゞ自動車で日本リーグ優勝6回、オールジャパン優勝5回という黄金時代を築いた小浜元孝も遠く及ばない、主要な国内大会で実に39回の優勝をなしとげ、国内公式戦171連勝という途方もない記録を打ち立てた。また、女子日本代表の監督として世界選手権で銀メダルを獲得し、おそらく日本人の中で世界でもっとも名を知られたバスケットコーチの一人だろう。尾崎が残した”数字”を見れば、彼は十分に偉大なコーチとみなされていいはずだ。それだけの評価に値する記録を尾崎は残しているはずだ。ところが……。

図書館に行って「尾崎正敏」で検索するとどうだ? アマゾンの検索窓に「尾崎正敏」と打ち込んでみるとどうなる?

トリスタン ああ……。

メフィスト 検索結果は「0件」だ。ゼロ。なにもなし……。尾崎正敏のことを知りたいと思って図書館に行っても、そこには一冊の本もないんだ。
トム・ホーバスの本は2冊も出てるのに、ホーバスより半世紀も前に世界選手権で銀メダルを獲った日本人監督の本はなぜ一冊もないんだ? 誰か尾崎から学びたいと思う人はいなかったのか? バスケに関してはまったくのシロートの彼でも、恩塚や鈴木について文章を書こうと思ったら尾崎のことを知らなければならないと思うくらいなのに、どうして誰も尾崎の物語を書こうとしないんだ?

トリスタン 彼は、どうして尾崎監督のことを調べようと思ったんです?

メフィスト それは、恩塚と鈴木の仕事が尾崎の仕事のまっすぐ延長線上にあると思ったからだ。つまり恩塚と鈴木二人の進む道筋を尾崎は一人で作ったとも言える。それがどういうことかは、第七の門の内側であきらかにされるだろう。

トリスタン 恩塚コーチや鈴木コーチがなしとげてきた成果は、尾崎監督が作った土台の上にある、と。

メフィスト 尾崎が女子代表の監督を務めた1970年代を日本女子バスケの黄金時代とあなたたちは呼ぶ。その黄金時代以上に語り継ぐべき物語があるのか? それは俺たちが生まれる前の出来事だ。俺たちはそれを歴史(History)として学ぶこともできないのか? 尾崎を伝説の人物のように崇め、その快挙を神話のように想像することしか許されないのか?

日本バスケに一時代を築いた名将ともてはやしてるのは口だけか? 日本バスケット界の金字塔という賛辞はただのお飾りか? 違うというなら俺にその内実を見せてくれよ! その話を聞かせてくれよ! どこに行ったらその話が聞ける? どこに行けばその物語が読める?
本はなんのためにある? 図書館はなんのためにある?
物語はなんのためにあるんだ?!

トリスタン ちょっと、メフィストさん……?

メフィスト どうせまた、あなたたちは物語など無用だと言うんだろう? スキルや戦術やトレーニングの本さえあれば強くなれると言うんだろう……? 

黙ってろ……。

アメリカを見ろよ……。アメリカの書店の棚を見てみろよ!
ジョン・ウッデンがいま世界中のバスケット人の尊敬を集めているのはなぜだ? パット・サミットが全米の女性アスリートからロールモデルとみなされているのはなぜだ? 彼や彼女の偉大さを語る者がいなければ、20世紀最高のコーチも、大学バスケットボール界の輝かしい模範も存在しない。
ウッデンの88連勝も、サミットの通算1,098勝も、そんなものはただの数字でしかない。彼らの人生に意味を与えるのは言葉だ。「20世紀最高のコーチ」「ウエストウッドの魔法使い」「大学バスケットボール界で輝かしい模範となった勝者」という”言葉”は、彼らの物語を語る上で誰かが創作したものだろう?

2016年に64歳でサミットが亡くなったとき、ある記者がこう書いた。
「彼女は私たちの元を去るが、私たちは彼女から学び続けることができる」そして記者が特にお気に入りだという彼女の25の言葉(名言)を紹介し、その追悼記事はこう締めくくられている。

「一人の才能あるコーチが私たちの元を去った。だが、その素晴らしい教師にして人格者、哲学者(philosopher)は私たちに的確なアドバイスを残してくれた。私たち一人ひとりをより良いものにしてくれる(making every one of us better)パット・サミットに感謝しよう!」

テネシー州はアメリカで最も訪れる人が多い国立公園と56の州立公園を有する自然の宝庫……と言えば聞こえはいいが、要するにど田舎だ。そんな田舎の大学の女子バスケ部のコーチが、追悼文で「素晴らしい教師にして人格者、哲学者」と呼ばれる国。それがアメリカだ。それがバスケットボールを生んだ国だ。

テネシー大のアリーナを埋め尽くして行われた彼女の追悼式の映像が公開されているが、1時間以上もあるため通して見ることは難しい。しかし、その式典で上映された6分半の追悼ビデオ、元アメリカ代表のミシェル・マルチニアクとWNBAで数々の記録を作ったキャンディス・パーカーが、口を揃えてサミットを「ヒーロー」と呼び、涙をぬぐうこの映像を見るだけで、彼女がいかに”テネシー人の誇り”であったかがわかる。そして、その撮影・編集の圧倒的なクオリティを含め、アメリカという国が持つ底力を思い知らされるだろう。
ビデオの中で、キャンディス・パーカーは大学時代の恩師にこう語りかけている。
「私たちはあなたが築いた遺産を受け継いでいくことができるようにベストをつくします」


一方、俺たちの国はどうだ? なりたい自分を思い描くとき、いま尾崎のようになりたいと思う日本人はいるのか? 今から半世紀後に恩塚や鈴木に憧れて指導者を目指す若者はいるのか? 彼らが持っていたかもしれない”賢者の石”(philosopher’s stone)を受け継ごうとする者はいないのか?

バスケットボールは「文化」(第1部4節)なんだろ? 「人生をより良くしていく」(第6部11節)ためにバスケットはあるんだろ? どうして彼らの生き様を言葉にしようとしないんだ? どうして彼らの言葉を世界に届けようとしないんだ? この国ではバスケットコーチはロールモデルになれないとでもいうのか? 俺たちの国は偉大なコーチを生むことはできないとでもいうのか?! 不滅の大記録を打ち立てた名コーチが、こんなに尊敬されない国が他にあるか……?! 

「スポーツは結果がすべて」なんて誰が言ったんだ? あの国の人たちが、そんなことを言うと思うのか……? そんなに勝敗が大事なら、一生技術論と戦術論だけ語ってろよ! 彼らの人となりや哲学が無視されても、彼らがほとんど敬意を払われなくても気にしないんだろう? 彼らの物語を誰も語ろうとしなくても気にしないんだろう? このまま彼らが俺たちの元を去ってしまっても、誰も気にしないんだろう……?

そんな国が……

そんな国がアメリカに勝とうなんて笑わせんな! 彼みたいなシロートが書く文章をありがたがってどうする?! 彼はメディアの人間じゃない。それどころか”何者でもない”。彼がいくら偉大なコーチを生み出そうと言葉を尽くしたところで、それを誰が聞くんだ? 「巨匠」「巨星」「太陽」「魔法使い」思いつく限りの言葉を使ってあるコーチを形容し、また別のコーチをバスケット界は言うに及ばずスポーツ界全体を見渡しても稀有な言語化能力の持ち主と讃え、「アンサングヒーロー」と呼んだところで、その言葉を何人が聞くんだ? せいぜい数百人がいいところだ。
アメリカのバスケットボール選手で、ウッデンの名前を知らない者はいないだろう。バスケに興味を持った者が、書店や図書館の棚にバスケの本を探す時、ウェブでバスケの本を検索する時、その名前は必然的に目に入る。一方、日本にいる何百万というバスケファンのうち、何人が尾崎の名前を知っているんだ? Bリーグ観戦を趣味とする熱心なブースターの何人が、彼らの名前を知っているんだ? 尾崎の本一冊出すことができない国がアメリカに勝とうなんて、百年早えーんだよ、どあほうが!!!

「ピピーッ!」

トリスタン テクニカルファウル!
ちょっと興奮しすぎですよ。おじいちゃん、落ち着いて……(話が長い上に説教くさいのよ……。それに尾崎監督は50年前にアメリカ代表に勝ってますから!)。
話戻しますね!

キャバリアーの矜持

トリスタン とにかく彼は尾崎監督の物語を公開することにしたわけですね?

メフィスト 彼は、何もせず、ただ眺めているわけにはいかないと思ったんだ。そして、こう問うた。なぜ私たちの国には尾崎の本が一冊もないのか? 彼らにあって我々に足りないものは何か?

トリスタン ちょっと待ってください! いま強烈なデジャブが……。この既視感はいったい……”リデンプション・ソング”の歌詞? we stand aside and look……いや、これは……! これは、2019年のワールドカップでの鈴木良和だ!

サポートコーチとしてチームに帯同していた鈴木は、日本代表が次々に敗戦を喫していく姿をコートサイドからなすすべなく、ただ見ていたわけではない。彼は試合を見ながら絶えず自問自答を繰り返していた。

日本と世界との差はどこにあるのか?
彼らにあって我々に足りないものは何か?

バスケットボールの定理【第5部】〜アンサングヒーローの密かな戦い〜より

メフィスト そう。彼が鈴木に共感することで、その問いは生まれたとも言える。

トリスタン それで、「我々に足りないもの」はなんだったんです?

メフィスト それはまだわからない。彼はまだ答えにたどりついていないんだ。その”答え”のヒントを求めて、彼ははじめに図書館に行った。考えるきっかけとして、まずは歴史を知ろうと思ったんだな。
答えが見つかるのかどうかはわからない。ただ、とにかく彼はただ眺めているだけでなく考えることにした。あの時の鈴木のように……。

トリスタン なるほど。鈴木社長の影響力は絶大ですね……。ところで、今の話を聞いて、ますます第七の門の向こう側に行ってみたくなりました。私もそろそろ引退後を真剣に考えなければいけない年齢ですからね。賢者の石を手土産に指導者になるのも悪くない。私にも、なにか合言葉を探る上で、ヒントになるような情報はありませんか? 彼の思考/嗜好をトレースできるような……。

メフィスト なぜそんなに門の向こう側に行ってみたいんだ? そんなに聖杯が欲しいのか? 賢者の石が欲しいのか?

トリスタン それは、欲しいに決まってますよ……。

メフィスト では、問いの立て方を変えよう。彼は子供の頃、バスケをするのが大好きだった。学校の休み時間には毎日体育館で友達とバスケをしていた。本当に飽きもせず毎日。そして家に帰ると、やはり毎日のようにBSでNBAの試合を見た。
彼の思考/嗜好をトレースしたいなら、こう考えてみることだ。
なぜ人は、バスケをプレーしてしまうのか? なぜ人は、バスケの試合を見てしまうのか?

トリスタン 楽しいからじゃないですかね? 私もバスケをするのが楽しくて続けてるうちにNBAまで来てしまいました。

メフィスト まあ、それもひとつの正解ではあるだろうな……。
ひとつ彼に関する情報をやろう。昔、アルファベットと数字を組み合わせた合言葉(password)を作るとき、彼はよく好きなNBA選手の名前と背番号を使っていた。

トリスタン それは有力な情報ですね! それで、彼の好きなNBA選手とは誰なんです?

メフィスト それは……なにせ昔の話だから……。確か背番号は「3」だったと思うが……。

トリスタン クリス・ポール! いや、昔の話ということはもう引退した選手でしょうか……。
私は、引用好きの彼のことだから、てっきりその合言葉も何かからの引用だろうと思ってました。これまでにも彼は Warp Records のステッカーやら、フライローのアルバムジャケットやら、KITHのTシャツプリントやら、散々引用しまくってますから……。

メフィスト なかなか鋭いじゃないか。20年以上も昔、彼はアメリカで2枚のTシャツを買った。1枚はデューク大ブルーデビルズのTシャツで、胸には「D」のロゴの中に悪魔の横顔がプリントされていた。もう1枚はマサチューセッツ大バスケットボール部のTシャツで、すっかり色あせたそのTシャツを彼は今もまだ大切に持っている。そこにプリントされていた言葉が、彼の心に響いたんだ。その言葉はその後MLBのシアトル・マリナーズにパクられ、マリナーズも同様の言葉がプリントされたTシャツを売り出すことになる……。
今のは大ヒントだ。

トリスタン ……! やっぱり、あなたは合言葉を知っているのですね?! もったいぶらないで教えてください、その言葉を!

メフィスト そう焦るな。実際のところ、それは合言葉というより宣誓の言葉なんだ。彼は無政府状態のインターネットで無制限に文章を公開すると様々な人から読まれ、中には誰かを攻撃するためにわざわざ彼の文章を読むような人までいるということを知った。
そこで彼は門の前に門番を置き、中に入る者に宣誓させることにした。それによって彼は自分の文章を読む者をふるいにかける(フィルタリング)ことにしたのさ。ネット上で他人を攻撃することに躍起になっているような者は、門の中に入ることは許されない。嘘の宣誓をするなら別だがな。
彼はコピペも許さない。そこに入る者は一文字一文字その宣誓の言葉、すなわちパスワードを打ち込まなければならないんだ。

トリスタン もう、待ちきれません。宣誓でもなんでもします。教えてください。今すぐに!

メフィスト 俺も一字一句正確にその言葉を知ってるわけじゃない。ただ……これは単なる偶然だろうが、合言葉の文字数は、彼が昔パスワードの設定に使っていたNBA選手のフルネームの文字数と一致する……。

トリスタン ……(選手の名前知ってるなら、忘れたふりしないで教えてくださいよ……)。

メフィスト それと、もうひとつヒントをやろう。お前も元キャバリアー(騎士)なら騎士道(Chivarly)のなんたるかを知っているだろう。
中世にローマ帝国が滅びると北ヨーロッパには国家的な政府はほとんどなくなり、大勢の領主たちがそれぞれの領地内で権力をふるい、互いに反目し合うようになった(史実のアーサー王もブリトンの一部族の王であった)。この時、各領主(王)たちの横暴を抑圧する力となったのが騎士道だ。すなわち、勇気、正義、謙譲、忠誠、礼節、献身、弱者への憐憫等の徳を備える英雄的性格(heroic character)の理想だ。

トリスタン トマス・ブルフィンチの「アーサー王とその騎士」ですね。また古い本を引っ張り出してきましたね。それがアメリカで書かれたのは19世紀の半ばですよ?

メフィスト 歴史を学ぶのに古いも新しいもない。彼はアメリカ人のメンタリティを学ぶために騎士道精神を知ろうとしたんだ。

トリスタン 彼が……? ああ、なるほど。たしかにこれは大ヒントだ。
国家的な政府がほとんどなくなった北ヨーロッパで騎士道は領主たちの横暴を抑圧する力となった……。彼が騎士道について調べていたのだとすると、合言葉/誓いの言葉は無政府状態のインターネットにおける騎士道精神を表したものであるに違いない。

メフィスト やはり鋭いな……。それと、これは忠告になるが、「誠実」は騎士道の基礎とみなされている。つまり、ひとたび騎士の唇から出た誓いの言葉はいかなる犠牲を払っても実行されなければならないのだ。それが理解できていればいい……。
上を見てみろ。

トリスタン 上? 

メフィスト ページの一番上だ。

トリスタン ……あっ! これは私のトレーディングカードではないですか、しかもサイン入りなんてレアですね。どこで見つけてきたんです?

メフィスト 彼は10代の頃、NBAのトレーディングカードを集めるのが好きだったんだ。彼のお気に入りはトップスでもフリアーでもなくアッパーデックだったが……(古すぎ!)。

トリスタン ……ん? でもこれは、私のサインじゃない。私の筆跡でもない……。これはいったい……?

メフィスト 気づいたか。それは彼の筆跡だ。

トリスタン ……! でも、この字はどう読めばいいんです?

メフィスト この文字が読めないという人は↓のYouTubeを見ろ!

メフィスト で、この字が読めたという前提で話を進めるが、3人のトリスタンのカードにそれぞれ一語ずつ彼直筆の言葉が記されている。

トリスタン 3人のトリスタン?

メフィスト トリスタンの名を持つ3人の男たちだ。彼ら3枚のカードをコンプリートし、トリスタンのトリニティ(三位一体)がなしとげられたとき、一つの文が現れる。それが第七の門を開く言葉だ。

トリスタン あと2枚カードがあるのですね? それはいったいどこに?

メフィスト 後日またここに来い。その時にもう1枚カードを渡そう。

トリスタン 後日? しかも、また1枚だけですか?

メフィスト 彼が1枚ずつしか俺に渡してくれないのでね。

トリスタン なるほど。合言葉が知りたければ三顧の礼をつくせというわけですね。いいでしょう……。
これって、なんだか謎解きみたいですね。
アメリカには昔『ビール文書』というのがあって、暗号解読に熱狂した人たちが大勢いたんですよ。知ってます?

メフィスト 宝の埋蔵場所が書かれた暗号文のことだろう?

トリスタン そうです。それは3つの暗号文のセットで、暗号の示す場所には9,300万ドル相当の財宝が埋まっていると言われています。そして130年以上、何世代にもわたり、何百、何千という人々がその暗号解読と宝探しに挑んできたのです……。

『ビール文書』と失われた財宝

1822年春、ヴァージニア州リンチバーグ
アメリカがゴールドラッシュに沸いていた時代の話です。リンチバーグのホテルにやってきたトマス・J・ビールという旅人が鍵のかかった鉄の箱をホテルのオーナーに預けました。そこにはビールとその仲間たちの財産に関する書類が入っている。もしもこれから10年の間にビールもしくは仲間の誰かが箱の返却を求めなければ、鍵を壊して箱を開けるようにとオーナーに頼み、その後ビールは永遠に姿を消しました。

約束の10年がとうに過ぎた1845年になって、ホテルのオーナーはようやく鍵を壊して箱を開けます。そこには暗号化された3通の文書と、普通の英語で書かれたビールの手紙が入っていました。
手紙によると、ビールとその仲間たちはニューメキシコ州サンタフェの近くにある小さな渓谷で野営した際にそこで大量の金銀を発掘し、ヴァージニアに持ち帰って秘密の場所に埋めた。そして自分たちに万一のことがあった場合に財宝を親類縁者に渡すために、信頼できる人物に財宝の隠し場所を示す文書が入った箱を預けることにしたのです。

メフィスト ビールと仲間たちは自分たちの死後に宝が隠されたまま失われてしまうことを恐れたんだな。

トリスタン 三つの文書にはそれぞれ、宝の隠し場所、宝の内容、分け前を受け取る親類縁者のリストが書かれているとのことでしたが、暗号化されたその文書はただの数字の羅列でしかありません。この暗号は、それぞれの数字がアルファベットのどれかの文字を表しているのです。

メフィスト ビールは言葉を数に還元してしまったんだ。そして、そこに書かれていた言葉は意味を失ってしまった。

トリスタン オーナーは20年かけて暗号に取り組みましたが解読できず、死の間際に一人の友人にこの文書のことを打ち明けます。そしてその友人が、『ビール文書』と題された小冊子を書いた。”彼”の名前は知られていません。”彼”は身元が判明しないように発行人を別人に依頼して、『ビール文書』を発行したのです。それが1885年のことでした。その小冊子が書かれなければ、ビールとビールが埋めた財宝が世に知られることはなかったでしょう。私たちがビールとホテルのオーナーの物語を知ることができるのは、すべてその謎の”彼”のおかげなのです。小冊子にはこう書かれています。

「私が予想するに、この小冊子は広く流布するだろう。そうなれば、アメリカのいたるところから問い合わせの手紙が殺到するにちがいない。私はその作業にかかりきりになり、仕事もままならなくなるだろう。そこで私はこの小冊子を匿名で出すことにした。」

それ以来、宝を探す大勢の人たちがリンチバーグにやってきました。
一攫千金を狙うトレジャーハンターのみならず、合衆国暗号解読課を設立したハーバート・ヤードリーや、通信隊情報部(SIS)のウィリアム・フリードマン大佐など暗号解読のプロたちもビール暗号を解こうとしましたが、誰も解読に成功しませんでした。
1970年から1996年にかけて、年25ドルを払って四半期ごとのニュースレターを受け取り、暗号に関する定期的なセミナーやシンポジウムに参加する権利を得るという組織、「ビール暗号協会」さえありましたが(メンバーは、実際に宝物を見つけた場合、収益の10%を協会に寄付することになっていました)、今では解散しています。
ビールの謎は一世紀以上がたっても解かれることはなく、ビールの宝は永久に失われてしまったんです……。

メフィスト 永久に……?。

トリスタン 永久に……。

メフィスト ……本当にそうかな?

トリスタン ……?

メフィスト お前がいま語った物語を聞いて、ワクワクしないやつがいるか? お前たちの国には、まだあきらめずにビールの宝を探し続けている人たちがいるんじゃないか? 暗号を解読しようと、つまり、宝のありかを示していた言葉たちの意味を回復しようと努力している人たちがいるんじゃないか?

トリスタン もしかしたらいるのかもしれませんが……。

メフィスト きっといるさ。お前も騎士の端くれなら聞いたことがあるだろう。第27期竜王(ドラゴンキング)の糸谷哲郎八段はかつてこう言った。

「心が折れないかぎりは、負けじゃない!」

トリスタン ……! それは騎士(棋士)違いでは……?

メフィスト つべこべ言わずに、これを見ろ!

トリスタン これは! 彼が今も大切に持っているというマサチューセッツ大のTシャツ……?

メフィスト そうだ。そこにプリントされた言葉をよく見てみろ……。
心が折れないかぎりは、負けじゃないんだ!

トリスタン ああ、安西先生も言ってましたね。「あきらめたら……」

メフィスト 言うな! ここで参照されるべきは、漫画の中のコーチの言葉ではなく、日本のバスケットを今日ある場所まで推し進めてくれた先達の言葉であるべきだ! 俺たちが尊敬し、その遺産を受け継がねばならないと思う誰かの言葉であるべきだ! 

俺たちが過去の偉大な名人から当代の現役棋士に至るまで、彼らの言葉をいくらでも引用することができるのはなぜだと思う? それは、棋士が将棋ファンの尊敬を集める存在であり、いつの時代にも棋士たちの伝記物語を書く著者たちがいたからだ。また棋士自身も新聞でエッセイを連載したり、将棋連盟のウェブサイトに原稿を寄せるなど、ファンに言葉を届けようという不断の努力をしているからでもあるし、さらに言えば、この国では将棋が単に勝敗を争う競技を超えた「文化」であるからにほかならない。

彼は本当はここで、尾崎の言葉を参照したかった。だが、その言葉を参照するすべを今はまだ持たないため、代わりに遥か遠くテネシーから以下の言葉を引っ張ってくる。それは、『定理』の続きを公開するよう彼の心を変えた言葉でもある。

「選手がミスを犯したときはいつでも、すぐに引っ込めたいと思うものです。けれど彼らを叱りつけ、取り返すチャンスを与えずに座らせたりしてはいけません」

"When a player makes a mistake you always want to put them back in quickly. You just don't berate them and sit them down with no chance for redemption."  -Pat Summitt

トリスタン そう思っているんですね……「今はまだ」と……?。

メフィスト そうだ。俺たちはまだ途中でしかない。まだ取り返すチャンスはあるんだ!

トリスタン ……物語はまだ終わっていない……!

メフィスト そう。もしかしたら、お前もその物語の一部かもしれないよ。

トリスタン ……!

メフィスト ……。

トリスタン ……? って、いったい誰に向かって言っているんです?

俺たちの”リデンプション・ソング”

メフィスト いま日本の棋士の言葉とアメリカのバスケットコーチの言葉を参照したが(私たち一人ひとりをより良いものにしてくれるパット・サミットに感謝しよう!)、そのインスピレーションとなったのは冒頭に引用したジャマイカのシンガーの言葉だ。最後にその曲ができあがるまでの”物語”を綴ったイアン・マッキャンの文章から、一部を引用しよう。

これは私たちがどのようにして今いる場所にたどり着いたのか、そして彼がこの世からいなくなった時に私たちが失うものがいったい何なのかを思い出させ、彼がいなくなった世界で私たちが進み続ける手助けとなる曲である。これが誇張に聞こえたら、オンラインで検索してみてほしい。数え切れないほど多くの人々が、その厳しく困難な人生を歩み続けるために、ボブ・マーリーの音楽を支えにしていることがわかるはずだ。

イアン・マッキャン "The Story Behind Bob Marley’s Timeless Anthem"

このマッキャンの文章を読むとき、俺たちは第6部の冒頭で彼が引用した古田徹也の言葉を思い出す。

彼はある箇所で、「私は実際、世界の片隅に散らばっている友のために書いている」と綴った。彼の遺した著作が世界中で読まれ続けていることは、その友がーーともに嵐に立つ者がーー、彼が思っていたであろうよりも遥かに多く、世界の隅々にいることを物語っている。

古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』

人が支えにしているのは音楽や書物ばかりではない。俺たちは実にいろいろなものを心の支えにして生きている。それは世界がそれだけでは不十分だから(The World is not enough)であり、その不十分な世界を満たすために生み出されたものを人は「文化」と呼ぶ。

トリスタン そんな文化の定義は初めて聞きましたが……。

メフィスト ある詩人が「文学」について語った言葉を勝手に「文化」に置き換えているからな。だが、そのように文化を捉えることも可能だろう。彼がこのあいだ言っていたように、問題は正しさではない。冒頭の歌詞の和訳だって正確ではないかもしれない。だが、あの曲の歌詞をそのように読み替えることも不可能ではないし、そう読めたからこそ、あの曲からインスピレーションを受けて彼はこの物語が書けたんだ。

"リデンプション・ソング"は黒人だけの歌ではない。先祖が奴隷だった人々だけの歌ではない。この歌が人種も身分も生まれた時代をも超えて、世界中の人々の人生を支え続けているのはなぜだ? 歌の解釈は一つだけではないんだ。
 俺たちの"リデンプション・ソング"は”救いの歌”ではない。俺たちの"リデンプション・ソング"は、精神的奴隷状態に対する抵抗の歌ではない……。

俺たちの"リデンプション・ソング"は、"取り返す歌"だ!
「失敗は取り返せる」

そのために前に進み続けることを後押しするアンセムだ!

そして俺たちから失敗を取り返すチャンスを奪い取ろうとするやつら、一度失敗しただけで俺たちをすぐさまコートから退場させようとするやつら、そうやって失敗を許さない空気を作り、夢に向かって挑戦しようとする人々の足をすくませようとするやつらに対する抵抗の歌だ!

『定理』を読んできた者ならば、恩塚と鈴木の語る言葉から、彼らの生き様から学んだはずだ。俺たちは二人からーー、途方もなく大きな夢に勇気を持って挑み、どんな逆境にあってもあきらめることなく、粘り強く一歩ずつ前に進んできた彼らからーー、次のメッセージを受け取った。

「失敗を恐れるな。心が折れないかぎり、挑戦は続く」

時にこの国では……

歴史を知ろうともせず、先達の遺産を受け継ごうとも考えないやつら、あるいは俺たちの次の世代、子供たちのことを考えず、目の前の結果だけしか見ないやつらが、傍若無人な海賊のようにふるまって、俺たちの行く手を阻もうとする。それでも、少しでも前に進み続けるために俺たちはこっそり、"リデンプション・ソング"を読み替える。

どうせやつらはボブ・マーリーなんか聴かない。聴こうとも思わないだろう。これは俺たちの歌だ。やつらに心をへし折られそうになったら、"リデンプション・ソング"を聴くんだ。そして、この曲に支えられている友が世界中の片隅に散らばっていることを思い出せ。

トリスタン ……なるほど。ひとつの言葉、ひとつの歌にも、いろんな解釈の仕方があるものですね……。あなたの解釈の妥当性はともかく、世界が不十分であるというのには同意しますよ。そうでなければ、私も聖杯探しの旅になど出ていないでしょうからね……。

全くつまらない毎日」に「心躍る時」ワクワクする瞬間が欲しいんです。ビールの宝探しに人を駆り立てるものも、結局同じなんでしょう……。

メフィスト 第七の門を開ける言葉を知りたければ、後日また来い。そのとき、大きな謎を残してこの世を去り、その後3世紀にわたって世界中の人々を謎解きに夢中にさせた、ビール以上に人騒がせな男の話を聞かせてやろう。

トリスタン わかりました。必ずまた来ます。もしかしたら、そのときにあの”答え”も聞けるかもしれませんね。

メフィスト 彼がそれを見つけていればな。

トリスタン そう願います。では失礼……。

(トリスタン、立ち去る。)

メフィスト ……行ったか。それにしても、あんな七面倒くさい手続きを踏んでまで物語の続きを読みたがるとは奇特な人もいたものだ。なにしろ『ビール文書』とはワケが違う。あっちに書かれているのは金銀財宝のありかだが、「バスケットボールの謎を解く聖杯」なんてのは比喩でしかないからな……。
彼も彼だ。その物語に価値があり、広く流布されるべきだと思うなら、暗号を使って隠すような真似をしないで、普通に公開すればいいんだ。まったくひねくれた人なんだから……。まあ、一時は完全非公開になる可能性もあったことを考えると、限定的とはいえ続きが公開されること自体は喜ぶべきなんだろうが、そもそも数百人がいいところの読者をさらに減らすような真似をして、どういうつもりなんだか……。

……ん?

しかし気のせいか、わずかに光がさしてきたようだ。この光はどこから……?

……ああ、なんだ。そういうことか……。

いつの間にか、もう夜が明けるのだ。

(第2部へ続く)


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