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バスケットボール殿堂の建設を願って(2023)

次はバスケットボールのアメリカ代表について書くと予告してから早数ヶ月……。

なのに、過去4回連続で日本代表について書いてしまっているのは、FIBAワールドカップ2023がめちゃくちゃ盛り上がったからで、その余韻が冷めないうちに、日本代表について書いておきたくなったからだ。
私に何ができるわけでもないけれど、このW杯の遺産レガシーを未来に残すために。

それで前回は、バスケットボール日本代表のユニフォームについて書いた。
それは、日本代表が、選手たちの誰もがそこを目指したいと思える価値ある存在になるためには? という問いを出発点として書かれている。

その原稿を書く過程で、サッカー日本代表のユニフォームについて調べていて驚いたのが、下の記事に書かれていた元日本代表の宮本恒靖氏の言葉だ。

着用したユニフォームのその後が気になるところだが、自宅に飾ったりするわけではない、と宮本氏は言う。

「選手にとっては、自分が着た代表ユニフォームはどんどん過去のものになっていく。自分を高めないと次は着られないという想いがあるので、立ち止まらずに常に次のものを求めていくんです」

「自分では飾りませんが、日本サッカーミュージアムにシドニー五輪や日韓W杯で着たユニフォームが飾られていて、たくさんの人に見てもらえるのは誇らしく思います」

自分では日本代表のユニフォームを飾ったりせず、宮本氏が各大会で着ていた代表のユニフォームは日本サッカーミュージアムにあるということに驚いた。
そして、この宮本氏のインタビューを読んで、『ヒーローはどこにいる? 〜ケイトリン・クラークとホークアイ〜』に書いた、ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂のことが思い浮かんだ。

この原稿の中で、ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂を過去の名選手たちのユニフォームやシューズ、写真や映像が展示されている博物館のような場所だと紹介した。そこは7歳から70代までのバスケファンが楽しむことができ、全米から多くのバスケファンが足を運ぶ人気観光スポットであり、日本にもそのようなバスケファンが夢中になれる観光施設があればいいのに、と書いたけれど、その願いは、ただ私ひとりの願いではなく、日本バスケット界40年の悲願だ。

1981年に発行された『バスケットボールの歩み 日本バスケットボール協会50年史』にその願いはすでに記されている。

バスケットボール殿堂の建設を願って

わが国のスポーツ界で、「殿堂」と言うと、野球以外では、まず、聞かない。わが国の「野球殿堂」は1969年(昭和44年)6月に、田辺宗英記念事業委員会(委員長正力松太郎)が、旧後楽園の一部に設立した野球体育博物館の中に設けられている。そして、日本の野球の普及・発展に尽くした人々の額を掲げて、その名誉を称えている。これまでに60人余が「殿堂」入りしており、それは、野球界では最高の栄誉とされている。

野球の発祥地は、もちろん、アメリカであって、すでに、1939年(昭和14年)6月、ニューヨーク州クーバーズタウンに、‘National Baseball Hall of Fame and Museum’ として設立されているのは、さすがである。
さて、このようなスポーツ殿堂は、アメリカ・カナダで実に30種目余にわたって設立されており、バスケットボールでは、めぼしい殿堂だけでも、アメリカには5つもある。

しかし、そのなかでも、最も伝統があり、最も規模が大きく、最も権威があるのは、バスケットボール誕生の地、マサチューセッツ州スプリングフィールドにある「ネイスミス記念バスケットボール殿堂」であろう。その理由として、つぎのような設立経緯があるからであろう。

1936年(昭和11年)、初めて、バスケットボールがおこなわれたベルリン・オリンピック大会から帰国した創案者J. ネイスミスは、全米コーチ協会(NABC)に、「バスケットボール殿堂」の建設を提案した。NABCは、1939年(昭和14)11月のネイスミスの死去に伴い、バスケットボールゆかりの地であるスプリングフィールド・カレッジ(当時の国際YMCAトレーニング・スクール)に、「殿堂」を建設する計画を作成した。ところが、この計画は第2次世界大戦のため、一時中断してしまった。その後、1948年(昭和23年)、計画が復活した。ネイスミスの友人であり、かつてのスプリングフィールド・カレッジのコーチでもあったE. J. コックスが、計画の責任者となって建設の準備を進めた。1963年(昭和38年)、責任者は、C. ウェルズに代わったが、1966年(昭和41年)までに10万ドル以上の資金が集まった。この年、かつて、NABCの会長をつとめていたL. ウィリアムスが支配人となって、1967年(昭和42年)に遂に、「殿堂」の建物が完成した。そして、1968年(昭和43年)2月17日、オープンした。

この殿堂の特徴は、それぞれ資格条件はあるものの、アマチュア、プロを問わず、推挙されれば、プレーヤー、コーチ、審判、功労者の四資格の中から選ばれて、殿堂入りできるということであろう。
最初に殿堂入りしたのは、もちろん、ネイスミスである。そして、ネイスミスの師として、バスケットボールの創案のために、多くの示唆を与え、ネイスミスとともに普及・発展に尽力したL. H. ギューリックなども含まれている。1980年(昭和55年)末までに殿堂入りした全米バスケットボール界のプレーヤー、コーチ、審判、功労者は、130名にのぼる。

また、ここには、コーチ、審判、企業、大学チーム、あるいは、個人の資格で1600人以上が、「ライフ・メンバー」になっている。そのネーム・プレートが、1階ロビーの壁にはめ込んである。日本人で、ここにネーム・プレートを持っているのは、渡辺直吉氏(法政大学教授)、水谷豊氏(青山学院大学助教授)、浜谷次氏(大電ビル〈株〉社長)のわずか3名だけである。

つまり、わが国においては、このバスケットボール殿堂の存在は、残念ながらまだ、衆知のものとはなっていないということであろう。しかしながら、この殿堂には、バスケットボールに関するアメリカ内外のさまざまな資料が収められてあり、アメリカのみならず、世界のバスケットボールの歩みを知ることができる。

さて、わが国のバスケットボールの歩みは、日本協会が発足して、いま、半世紀の道程を経た。そろそろ、わが国にも、その50年の歴史を刻みつけておく「バスケットボール殿堂」の建設の気運が起こることが望まれる。

スプリングフィールドのバスケットボール殿堂の支配人のウィリアムス氏がつぎのように述べている。

「殿堂の設立は、教会の信徒たちが、ちょうど、新しい教会の完成を待ちこがれるように、まさに、バスケットボール界の総ての人が、こぞって願い、渇望していたものだった。殿堂の中のあらゆる資料は、訪れた人たちが、今日までのバスケットボールの歩みをひもとくためにある。バスケットボールを人々から遠ざけるためではなく、いっそう親み、さらに、バスケットボールに愛着をもってもらうためにあるのだ」

近い将来、わが国にも、「バスケットボール殿堂」建設の槌の音が響き、日本協会の歴史の内容が、さらに豊かになることを期待したい。

日本バスケットボール協会広報部会(編)
『バスケットボールの歩み 日本バスケットボール協会50年史』

この文章に心打たれてしまったので、(無記名の文であるため、これを書いた方の名前はわからないが)彼あるいは彼女の思いを継いで、私は、バスケットボール殿堂建設の願いを2023年に復活させたいと思う。

アメリカにバスケットボール殿堂のアイデアが生まれたのは、バスケットボールがオリンピックの正式種目として採用された1936年のベルリン大会がきっかけであり、その建設計画が立てられたのはネイスミスの死去が契機であった。
日本におけるバスケットボール殿堂建設の願いが書かれたのは、日本バスケットボール協会の創立50周年がきっかけだったわけだが、その計画を立てるにあたって、男子日本代表が48年ぶりに自力でのオリンピック出場を決めたこのタイミングは申し分ないものに思える。男子日本代表が「歴史を作った」自国開催のワールドカップ。この機会を逃す手はない。

ところで、ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂は、バスケットボール発祥の地であるマサチューセッツ州スプリングフィールドに建設されたが、1981年版の「バスケットボール殿堂の建設を願って」には、日本のバスケットボール殿堂をどこに建設すべきかという具体的な提案はない。

そこで、2023年の今、バスケットボール殿堂を建設するとしたらどこがふさわしいか検討してみよう。

一案として、「バスケの街」秋田県能代市にある「NOSHIRO  BASKETBALL  LIBRARY&MUSEUM(略称:能代バスケミュージアム)」に併設することが考えられる。
日本の野球殿堂が、野球体育博物館の中に設けられたのと同じやり方だ。(日本サッカー殿堂も日本サッカーミュージアムの中にあった。)
日本や世界のバスケットボールに関する資料や書籍・グッズなどを収集・展示している博物館は私が知る限り国内にここしかない。
ちなみに今年は『スラムダンク』の映画「THE  FIRST  SLAM  DUNK」の効果で「NOSHIRO  BASKETBALL  LIBRARY&MUSEUM」の来場者は激増しているという。

また、今年のFIBAワールドカップ2023の盛り上がりを見ると、こう思う。
もし今、日本の「バスケットボール殿堂」の建設候補地を募ったならば、沖縄は確実に立候補するのではないか?

バスケットの競技者数が人口比率で全国1位であり、2021年に日本初のバスケット専用アリーナを誕生させた沖縄は、自他共に認める「バスケ王国」だ。
今年、男子日本代表が「歴史を作った」その地が、新たな日本バスケの聖地となり、FIBAワールドカップ2023のレガシーとして、沖縄に「バスケットボール殿堂」が建設されるとしたら、ストーリーとしても美しい。

もちろん、日本でバスケの聖地といえば、東京に国立代々木競技場 第二体育館があるし、全国最多のクラブを有する愛知も「バスケット王国」を自認している。バスケ愛では福岡だって負けていないだろう。
候補地はいろいろ考えられるだろうが、「バスケで日本を元気に!」というJBAの理念を体現して、「バスケットボール殿堂」を観光資源として活用できる土地が望ましいと思う。

あのパリ五輪出場を決めた試合で使われた歴史的ボール(1個はW杯初出場の記念球を欲しがっていたカーボベルデ代表に強奪されたようだが)が展示されていたら、バスケファンなら実物を見たい(歴史に触れたい)と思うだろうし、期間限定でも渡邊選手のバッシュが展示された日には秋田だろうが沖縄だろうがファンが大挙して駆けつけるだろう。

ところで、改めて書いておくけれど、私がここで「バスケットボール殿堂」と呼んでいるものは、日本バスケの歴史を築いてきた先人たちが残した記録や記念品が常設で展示され、そこに収められたあらゆる資料によって、訪れた人たちが今日までの日本バスケの歩みをひもとき、さらにバスケットボールに愛着をもてるような施設のことを指す。そのような施設であれば、それが「バスケットボールミュージアム」と呼ばれようが、「バスケットボール資料館」と呼ばれようが、名称は何であれかまわない。

「バスケットボール殿堂の建設を願って」で参照されていた野球体育博物館は、2013年に「野球殿堂博物館」に改称され、現在、収蔵資料は約4万点を数え、その図書室は野球に関連する書籍・雑誌を約5万冊所蔵しているという。

絶対に野球好きになるし、ここに来て野球を見るともっと面白いので、ぜひこの場所に来てください。
ー栗山英樹

日本サッカーミュージアムはJFAのオフィス移転に伴い、今年2月から休館状態にあるが、2003年12月の開業から約19年間で71万人の来場者数を記録し、2005年に日本サッカー殿堂が創設されると、殿堂入りした人々のレリーフをミュージアム内に展示してきた。

当ミュージアムには、日本サッカーの歴史が詰め込まれています。……歴史に触れ、未来のサッカー選手を育むミュージアムです。

以前、『ヒーローはどこにいる?』に「バスケットボールの殿堂は、殿堂入りした選手やコーチのためにあるんじゃない。それは子供たちのため、次の世代が先人たちの遺産レガシーを使えるようにするためにある。」と書いた。

けれど、宮本恒靖氏が語っていたように、そこに自分のユニフォームが展示され、それを何十万人という人々に(特にこれからサッカー選手を目指そうとしている子供たちに)見てもらえるということは、選手たちにとってもうれしいことに違いない。

1981年に「そろそろ、わが国にも、その50年の歴史を刻みつけておく『バスケットボール殿堂』の建設の気運が起こることが望まれる。」と書かれてから、さらに40年余りが経過した。
7年後、2030年には、日本バスケットボール協会は創立100周年を迎える。

映画「THE  FIRST  SLAM  DUNK」の大ヒットや、W杯での男子日本代表の躍進によって、いま日本のバスケット熱はかつてなく高まっている。日本バスケの歴史上、いまが最高の時と言えるかもしれない。
ただし、メディアの盛り上がりは一過性のものだし、「歴史を刻みつけておく」努力なくしては、W杯の大逆転勝利の記憶も、その立役者となった選手の名前すら、時間の経過とともに忘れられていくだろう。

そこで、記憶の風化をふせぎ、この熱気を絶やすことなく未来につないでいくために、あらためてここに願う。

今こそ、この国に、「バスケットボール殿堂」建設の槌の音が響き、日本バスケの歴史がさらに豊かになることを期待したい。

*       *       *

最後に、オリジナルの「バスケットボール殿堂の建設を願って」が書かれた1980年代は、日本バスケット界にとって冬の時代であったことに触れておきたい。

男子日本代表は1976年のモントリオール五輪を最後に世界大会から遠ざかり、次に世界大会への出場を果たしたのは1998年の世界選手権であった。

女子日本代表も「黄金時代」と呼ばれた1970年代に世界選手権で銀メダルを獲得し、モントリオール五輪でアメリカ代表とカナダ代表を破るなど目覚ましい活躍を見せたが、続く1980年代には一度もオリンピックに出場することができず、世界選手権での順位も低迷していた。

いま、日本バスケット界は夜明けの時代を迎えているが、かつて、世界の壁を前にもがいていた時期に、希望を失わず、いつか訪れるであろう明るい未来のために(まさにそのために)バスケットボール殿堂の建設を願い、その夢を後押しする文章を書き残した人がいた。
そのことを忘れないように、その名も知らぬ誰かの思いを忘れないように、ここにその全文を引用した。

このささやかな文章もまた、日本バスケット界に残されたレガシーのひとつである。


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