「知っている」「わかっている」の危うさ

私の中ではこれほどまでに面白い朝ドラは無かった。朝ドラという15分×5回/週 で半年間を積み上げるスタイルがこんなにも面白くなるのかとびっくりした。

登場人物、沖縄、戦争などの背景が、回を重ねるごとに少しずつ見えてくる。今まで見えていたと思っていたものが、実は全然違う意味を持っていたことが徐々にわかってくる。その裏切られる快感が半端なかった。


一方、「ちむどんどん」には批判の声が大きかった。全体的な批判が多かったかどうかはわからない。大きい声の批判がとにかく多かった。SNSでは感情的とも言えるバッシングやネットスラングを使った嘲笑など。それに乗った(ちゃんとドラマを見ているかどうかもわからない)ネット記事も多く拡散された。(それはドラマが終わった今でも続いている)

そこでいつも思ったのは「自分は知っている」「自分はわかっている」の危うさだ。

自分は朝ドラを知っている
どんな物語が正解かを知っている
どんな行動が正しいかわかっている
沖縄はどんな風土なのか、どんな歴史があったのか それらをどう描くべきなのかを知っている
正しい子育てを自分はわかっている
常識を知っている
礼儀をわかっている

などなど

自分の「知っている」「わかっている」を強く握りしめれば握りすぎるほど
「ちむどんどん」という羅針盤を手にぐんぐんと道を切り開いていく暢子たちは「わからない」存在になってしまったのではないか

「知っている」「わかっている」を手放さずに、自分の物差しで「わからない」物語を見ていけばいくほど、「ちむどんどん」は自分の正しさを満たさない間違った物語になってしまったのではないか


「知っている」「わかっている」は消費できるということなんだと思う。多くのドラマ評論家(プロアマ問わず)は、今までの朝ドラと比較して「ちむどんどん」を語ろうとする。

自分の中の正しい朝ドラの型を握りしめれば握りしめるほど、「ちむどんどん」を掴み切れずに自分の言葉で語ることができなくなっていた。よって、SNSの安易なバッシングに乗ってしまったのではないかと思う。

逆に「わからない」「知らない」ことを楽しめた人たちは、「ちむどんどん」の世界とたくさんの共鳴をしていたように見える。物語が展開するたびに、自分の見ていたものがほんの一部だったことがわかり、視野がぐんぐんと広がっていく感覚が私にはあった。それがとても新鮮だった。「わからない」ことの楽しさ。

ちむどんどんは、安易に沖縄を戦争を差別を 何より物語そのものを消費させないつくりになっていた。皆わかった気持ちになって消費して忘れていく。自分の生活と「沖縄」「戦争」を切り離し、自分とは違う世界の物語に癒され満たされ満足して終わらせていく。ちむどんどんは、それをさせてくれなかった。だから私は心から信頼して物語を追うことができたのだ。



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