インプットとアウトプットは提供価値で分ける
今回のお話
インプットとアウトプットが大事でとりわけアウトプットが大事だとよく見聞きすることがあります。
あれは正しいのでしょうか。定義のないまま互いの内なるイメージのみで議論してしまうとバトルは空中戦へ水平線上に飛んでいってしまいます。
今回は、インプットとアウトプットについて考えていきましょう。
提供価値で差分をつける
多くのアウトプットの提供価値は、2種に分類することができます。
nice-to-have:別にあってもなくても良い。あれば役に立つこともある
must-have:必要。ないと困る。他人にとって価値があると思われる
つまり「他人にとって」どうなのかがアウトプットの提供価値の分かれ目だと思います。その上で個人的にはインプットとアウトプットの定義を以下にしています。
インプット:他人にとってnice-to-haveな価値を提供するための行い
アウトプット:他人にとってmust-haveな価値を提供するための行い
一見するとアウトプットが狭い定義になっているかと思います。ただ、アウトプットが大事と言ってもただ単に考えもなく行動しても何も生みません。良い経験になったと言いますが、それこそインプットではないでしょうか。
つまり、それほどアウトプットには価値があるものの出現頻度は普通は低いということです。
であるのでとにかくインプットせよというのが持論であります。
読書や勉強、業務で培った経験をnoteに書いたり、podcastで話したり、イベントに登壇したりなどしても結局一番実りあるのはその本人なのです。
つまり、広義のアウトプットをしているようでインプットをしているのです。
そのため、勉強や記事を読んでまとめてnoteに書いているのも自分にとってはインプットです。
そう考えているので、真に他人にとって価値あるものとは何かを考えてなるべく記事を書いていきたいなと思っています。もちろん万人に刺さるものなどアンパンマンかドラえもんくらいしかないため、局所的な想定ニーズに対して価値があるようなものを記事にしていこうと考えています。
相手のためのことも全ては自分のインプットになると考えれば、相手を出し抜くことや競争、情報を隠すことなくオープンに利己的な利他を出すことができるのではないかと考えています。
最後に
自分の好きなエッセイに村上春樹の本があります。小説自体はあまり読んだことがないもののエッセイは惹かれるものがあります。
その中だったか他のエッセイかは忘れましたが、「小説とはおりのようなもの」だという一節があります。
おりとは水中にある沈殿物をイメージするとわかりやすいでしょう。歩いていて、洗濯物を畳んでいたり、コンビニにいったりなど普段の生活の中でふとした時に浮かび上がってくる考えをメモに書き記すそうです。
それが溢れ出てきた時に小説ができるとのことです。
まさにこの記事でのインプット・アウトプット論の極地のような気がします。
様々なインプットをしてきて初めてアウトプットが溢れ出てくるのです。
インプットしまくって溢れ出るくらいの知見を身につけていきたいですね。
それでは、また。