『私の愛した能登半島』能登半島地震体験記③〜決断〜

こんにちは、ディーケーです。
今回も前回に続いて、能登半島地震で経験したことを書いていこうと思います。


①眠れない夜

自衛隊の基地に避難し、友人とも会い、安堵していたのですが、次の試練に直面します。
それはどのようにして夜を過ごすのか?

当時、輪島市の夜の気温は3℃でした。
とてもじゃないが、外で過ごすことはできません。
では、避難所で過ごすのか?となりますが、チワワが2匹いるので、避難所によっては入れないことになる可能性がありました。

そこで、父親が家から車を出し、家族全員で車中泊をすることにしました。

病院の駐車場なら安全だと思い、病院の駐車場で一晩を過ごすことにしました。

しかし、夜中でも余震が発生していて、そのたびに目を覚ましてしまい、中々眠れません。
それだけではなく、外では朝市での火災の赤い光と煙が上がり続けていました。
その光景を見るたびにより寝付けなくなり、人生で最も寝れなかった日となってしまいました。

②翌朝

それでも一晩が明け、太陽の光が射し込んできました。

家族全員でこれからどうするのかを話し合い、私は父親と2人で家に戻り、必要な物を取ってくることになりました。

1月2日午前7時。
病院から家まで父親と徒歩で向かいました。

その途中見た光景は今まで愛してきた故郷の姿とは、大きく違いました。

地面は隆起し、家屋は倒壊。
電柱は斜めになり、電線は垂れ下がっていました。

そんな光景を見ながら歩いていると、実家に着きました。
避難するときはほとんどわからなかった実家の様子はひどいものでした。

倒壊はしていないものの、土台や柱は壊れなんとか建っている状態でした。

いよいよ実家に入るときになりました。
実家に入るだけなのに、こんなに命がけになるとは思ってもいませんでした。

私は2階の自分の部屋に置いてきた財布や車の鍵を持って行こうと、自分の部屋に向かいました。

私が生まれ育った部屋はとんでもない状況でした。

本棚が倒れ本が散乱し、学習机の物は全部落ち、物置の扉は外れていました。
私は余震の心配をしながら、急いで財布や車の鍵を探しました。

あったのは学習机の下でした。机の上に置いておいた物が机の真下に来ていました。
どれだけひどい揺れだったのかと改めて感じました。

③決断

私は財布と車の鍵を回収し、家族の待つ病院に向かいました。

車の中で過ごしながら、たまに外を歩いて気分転換をするという時間が続きました。

そんなとき、昨日自衛隊の基地であった友人がグループLINEに連絡してきました。

「家族で金沢に移動している。」

そのとき、私は金沢に移動できる道があるのだと知ることができました。

その他にもネットで情報を収集し、金沢に移動する方法や道のりを調べていました。

「一時的に遠くに避難できる。」

しかし、私だけでなく、家族全員は同じことを思っていました。

「輪島にいる祖母や親戚はどうするのか?」

彼ら、彼女らを置いていくことに抵抗がありました。
何よりこのまま愛した場所から離れていいのか?
そんな悩みを全員が抱えていました。

一体どうすればいいのか?

時間が経ち、昼になったとき、家族全員で話し合い結論が出ました。

「金沢の親戚の家に行こう。」

そう決断しました。

一時的ではあるものの、故郷から離れるのは心苦しかったです。
それでも、まず自分たち家族の命を一番にしたときにどうするべきかを考え、このような決断に至りました。

前日から続く、恐怖や不安が少し和らぎ、希望の光が見たような気がしました。

しかし、金沢に向かう道中は私たちの前を阻むようなとんでもない困難が連続していきました。

④へ続く。

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