近代ヤクザ映画の物足りなさたるや誰が悪いのか世間が悪いのか悪いのはヤクザか
無頼、ヤクザと家族、すばらしき世界と、ヤクザ社会に踏み込んだ映画がここ最近連続して公開された。
だが、全てが消化不良。
俺の知るヤクザ映画はもっと面白いはずなのだ。
たまたま午後のロードショーで見た網走番外地の一遍、確か健さんが紫綬褒章を受けたときのラインナップだったと思う。
ヤクザ映画に触れたのはこの時が初めてだったが、陽気な仲間たちとの丁々発止のやり取りから、男気を爆発させてドスを振るうクライマックスまで、映画の魅力に飲まれてしまった。
その勢いを殺さず、仁義なき戦いへと突入し、私は見事に実録路線の虜になった。
負けが見えても戦うことを辞めない若者と、裏で保身に走る老獪な親分衆の姿は、若造には「社会の縮図」を描いているように思えた。
そこには負けてたまるかの熱量が溢れていた、去勢されていない男たちが躍動していた。
そして北野映画をつまみ食いしているうちに竜二に出会った。
小市民になれない、戻りたくない、新宿に帰って行く竜二の姿には、美学を見た。
三池軍団を筆頭にvシネマにも喰らい付いた。
面白くあれの、理屈を捨てた執念深さは中毒的な魅力に包まれていた。
そして近年になってどかどかとヤクザ映画が湧いてきた。
その前に孤狼の血やアウトレイジもあったが、まとまって公開された印象は薄い。
団子になってもったいないヤクザ映画が公開されたので書いてみた次第である。
なんとなく、ダメな共通点が思い付いたので書いてみる。
1.主人公の言い訳
実は良い人とかそういうのはいらない。
見栄と快楽のために一般市民よりも早いサイクルで栄光と破滅を突っ走るのが映えるヤクザなのだ。
すばらしき世界が一番酷い
ただの半端者ではないか
2.そもそもヤクザに憧れない
暴対法の成立からしばらく経ち、最早ヤクザで飯を食おうと思える普遍的な存在ではなくなっている。
憧れの反動として、映画を見ることで小市民である自分を認めるような役目もあったのではなかろか。
3.見せたいものと見たいものの乖離
ぶっちゃけヤクザから足洗ったのに社会が認めてくれないぴえん。なんて言われて自業自得としか思えない、
現実世界にいる元ヤクザとか昔ヤンチャしてた系の奴らの面倒臭さに対して無神経すぎる。
多くの観客はヤクザも元ヤクザも蛇蝎のごとく嫌っているのだ。
ただ、欲望を託した存在の破滅を見届けたいだけなのだ。
西川監督も、藤井監督も国会で揚げ足取りする野党と変わらん。
社会を語っているようで理解できない存在をそのままあることを受け入れず、自分の解釈の枠に嵌めようとしてるだけ。
そう思ってみると、無頼が一番可愛げがあったかしらん。
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