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噛みつきバイト

寝て起きたらまた小難しい言葉や変な言い回しを頻繁に多用した文章の下書きが残っていた。これが重篤になると現X (旧Twitter)で時々見かける旧仮名遣ひをなさる方々のようになるんだろうか。アレというのはつまり日本語とは元来かくあるべきというしっかりとした信念に基づいていると推察できるが、私の場合はただただかっこつけである。徹頭徹尾、終始一貫、初志貫徹、首尾一貫、かっこつけである。それでも少しだけ言わせてもらうと朝とか夜とか太陽とか月とかって言葉よりももっと微細な機微を表す言葉で正確に物事を表したいのであって、特にかっこつけたいっていうか、そういう、いや、かっこつけたい。言葉でかっこつけたい。

観光について調べていたら本当にどこでも祭りが催されていて驚いた。浴衣を着て屋台や出店で貪り尽くして蚊に身体中を刺されてどういう意味があるのかわからない神輿を観たりする、あれだ。日本人は祭りが好きだ。真面目だから。真面目だから、強力に結びついた首輪を緩めるのでは飽き足らず褌(ふんどし)一丁で大暴れする。山を野を駆け大いに傷つき叫び時には死者も出る。血湧き肉躍り祭りという免罪符を使って集団に自我を溶かしラリりまくる。

真面目な兄や友達の童貞がライブを好むのも同じだ。同じものを崇拝してる信者と同じ方向を向いて自我を溶かして大暴れ。モッシュでは怪我人も出る。座り込みなんかをしてらっしゃるような方々も環境保護団体も動物愛護団体も盲信し崇拝する奴も皆同じだ。教祖と経典と信者さえあれば定義上それは宗教の形を持つ。但し、他にも幾つもの手段で人は酔える。私は戦争を祭りだと思ってる。

鎧を纏い武器を携えて傷つき傷つけ奪い奪われ殺し殺され血が吹き荒び肉が飛び散り嬌声に似た悲鳴が木霊するそれを祭りと呼ばず何と呼ぶか。ヘルシングのキャラみたいな思想だがその戦争の二日酔いに身を窶している人類は未だそれを和らげるためまた酒を飲む。スポーツ中継なんかの闘争やデフォルメされた暴力、競走と誇示。しかしどれも戦争の夜露には及ばない。集団に溶けて自我を忘れ魚群となって肯定感を満たし怪我のために脳内物質が出て敵を殺して暖かな返り血を浴びて誉高い栄誉を受けて生まれてきた意味を知る。これほど嬉しいことはないだろう。今やこれらを満たす術は多くない。だからまるで私たちは麻薬の切れた中毒者のように項垂れて生きている。

好きなバンドのライブでも私は端っこで腕を組んで演奏技術に注視していた。そこいらのファンというのは跳ねたり踊ったり歌ったりしている。私は絶対に自我を解かせない。魚群に落ちることが出来ない。軟体生物のように溶解することができない。それは死ぬことと似ている。時々人はそうして少しだけ死の淵に足を踏み入れる。私はそんな風に死にたくはない。そんな風に死と対峙したくは無い。死は揺蕩っている水母のようなもので、惘(ぼんやり)としたそれを自ずと掴むことこそが死だ。死は与えられるものでは無い。実行するものだ。

死とは客観だ。しかし、動詞でもある。行うならという前提の元に。譬えば今この瞬間私の頭蓋が撃ち抜かれたとする。全ての感覚は失われ私は消え去る。それは瞬間的に眠るような感じだろう。燭台の火が消えるように瞬く暗闇が訪れる。それが最後だ。それを死と判るかは分からないが、恐らくその感覚を分析する間もないだろう。

しかし命は道具だ。死は道具だ。肌を刻んで詩人は血で語る。はらわたを切り裂いて武人は軍人を鼓舞する。無実の証明のために茶人は脊髄を差し出す。身体は道具だ。思考は道具だ。神経は道具だ。それを了解しているから使い道を持て余すのがなによりもつらい。殺し、殺されたい。特攻し、自爆したい。そうして自分には価値があると実感したい。生まれてきた意味を知りたい。ただのうのうと生きて醜く老いてなにがあるというのか。死を受けいれ死をコントロールして死を使うのが人の在り方なのではないか。漫画やアニメ、映画もそうだ。いかに傷つけいかに死ぬか。競走と闘争、その根源が生物の人間なのではないか。

遺伝子は飲み込み変異するものだ。喰らうとはそういうことだ。より多くを喰らいより多くを殺すために遺伝子は変異する。微生物もそうだ。ではその微生物の成れの果てがこうも血みどろの歴史を築いてきたのは自然の摂理だ。科学の歴史は戦争の、人の歴史だ。

形式化されパッケージングされたそれらに身震いする。


今日のこと。

今日の配達は少しく変わって郵便の配達だった。普段小包の配達をしているが郵便配達に全く人が足りてないので小包配達に余裕のある時はそうして手伝いに馳せ参じるのだ。雖一部分の配達だけだ。

何故か助手席におじさんを乗せろと命じられた。そのおじさんはバック事故を起こし滅茶苦茶疎んじられ嫌われていたおじさんだ。下記を参照の事。なんだこのタイトル。

何故同乗させるかと言うと彼が飛ばされた郵便配達で運転もさせられず使い道が無いからだそうだ。使い道が無いと言われても此処でも使い用が無いのだが。というか正直私も彼が可成嫌いなので断れるなら断りたかった。断れなかったのは断る度胸が無かったからだ。誰かしらがそのおじさんの犠牲になる訳だし。

郵便物と序で配達する小包を車に積み込む。おじさんは何をするでも無く棒立ちしている。一緒に積み込めば早いんじゃないか。酷い猫背で歪曲した背筋を項垂らせて思考の読めない表情を浮かべている。

助手席におじさんが乗ると先ず真先にお爺さんの異臭がした。枯木と不潔と畳と白蟻と死骸と土と憂鬱と復讐と欲望の香。話す事が無いので一言も口を聞かなかった。何度か右折の為に左側を見ようとすると介錯された死体の様なおじさんが居て良く見えなかった。仕事で助手席に居るなら車が来てるかどうか教えて欲しい。臭い。

郵便物の配達を任せるのに当たってどの束が何処のマンションへの配達なのかを不本意ながら懇切丁寧に教えなければならなかった。その仕事をやってるにしては様相まるでど素人の有様。私は私が担っていた小包配達を終わらせるとその場で惘立ち尽くしてるおじさんが在った。地図も有るのでその配達が終わったら車から郵便物を取り出して配達してきてくださいと言っていたのに。

諸々終えておじさんの配達しているマンションへ行って手伝おうとしたら不穏な動きをしていたので問い詰めた。そうした所、住所が合っているのかと思って……。と宣った。私が確認して渡した郵便物であるのに。如何しようも無い。配達も滅茶苦茶遅い。邪魔でしかない。

仕事を終えておじさんを車から降ろすと片付けを手伝う事も無く何処かへ消えた。未だ定時では無いのに何をして過ごすつもりなんだろう。

彼が如何しようも無いのは彼のせいなのだろうか。はっきり言って遺伝子レベルで社会に相応しくない事が多すぎる。それでも私は彼を蹴落とす。前述の通り私は闘争によって私を誇示するために。


台風のせいなのか猛暑のせいなのかわからないが胃腸がずっと終わってる。大体身体の不調なんかは数日で治るもののもう長いことこの調子だ。いくら気圧のせいで閃輝暗点、頭痛なんかが起きる体質とはいえ連日の雨も相まって全く気が晴れない。いつも何かに怯えてるような、そんな精神状態。
で、また台風が発生したらしい。梅雨より雨が降ってる。めちゃくちゃ雨が降るかめちゃくちゃ暑いかどっちかだ。救いはない。

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