植物狂いのお節介。

僕は、貧しい専業農家の長男坊として生まれた。
父親は頑なな職人気質で、農業一本で一家を必死に支えようとしていた。
僕はその、頑なに一本気に頑張る父親が大好きだった。僕はよくいたずらワガママし放題だったから、やたら怒られた。正直、父親には怖いイメージがあったが、それでも夜に野菜を市場に運び込むお手伝いをしているときは、父親と二人きり、まるでデートのように楽しくて、ときめいた。

やがて僕が成長するに従い、僕と父親の距離は離れていった。僕はいつしか野菜の運び込みのお手伝いをしなくなり、父親もそれを言わずに市場へ行くようになった。僕が中学校、そして高校へと進学してゆくに従って、学校で必要な資材、部活動で必要になってくる出費、高校では教科書代やら遠征費用など、かかる出費が増えていく中、父親は頑なに必死に農業を続けて僕を養おうとしてくれた。

高校の3年生の時、僕は進路をどうしようかと考えていた。大学へも行きたかったが、家庭にお金がない。やむなく、家庭に回そうと僕は『稼ぐ』方向で考えていた。そんな折、父親と母親から立て続けにこう言われる。

『お前には、農業は継がせられない。今の日本の農業を取り巻く環境では、うちみたいな中小規模の農家なんかは稼げない。悪いことは言わない、農業は継がないでくれ。』

僕はその時には、農業を継ぐ想定はしていなかった。しかし、いざそう言われてしまうと…気持ちは少し楽になった反面、言いようのない寂しさに吹きさらされた。父親が、何があっても諦めることなくまっすぐ真っ正面から闘ってきた『農業』というフィールドに、僕が今後立てないと言うことがとても淋しかった。

僕はその後、農業…はおろか、植物というジャンルとはほぼ無縁の生活をひたすらに送ってきた。若気の至りで遊び回り、はしゃぎ回り、迷惑ばかりかけ続けてきた。そんな僕を、父親も母親も、あまり責めずに見守っていてくれた。そのありがたみがわからなかった僕は、それをいいことに若さやエネルギーを無尽蔵に浪費し続けてきた。

そんな僕も、ある時を境に植物が好きになる。当時お付き合いをしていた女性と公園で拾ったどんぐりを、僕が芽出しし育て始めたことがきっかけで、僕は再度植物を育て始めるようになると、そこからは花開いたようにどんどん植物が好きになり、小さな木から野菜から野草から…花に山野草に、ハーブにとそのジャンルはどんどん広がっていった。

元々植物が大好きな父親とも話すようになり、話が弾むようになり、それから僕の生活態度もだんだん、少しづつではあるが改善されていったように思う。
畑の一角を父親に借り、父親の『酒の肴』を僕が生産するようにもなっていった。僕に足りない知識を、父親はいつも暖かく、優しく教えてくれた。僕の作った不恰好な野菜でも、父親は『上出来だ、うまいぞ』と笑顔で食べてくれていた。それが嬉しくて、僕はどんどん野菜や…苗の生産に邁進していった。

今から、数年前のこと。
父親が、病に臥した。急性骨髄性白血病。体調不良をおして、ひたすらずっと農業に打ち込み続けていた結果、病状はかなり進行してしまっていた。あろうことか、同時に肺真菌症を併発していて、特定の薬剤を使うことはできず、延命治療しかできないという宣告を受けた。

その後はしばらくの間入院し、体力が回復してきた父親は自宅に一定期間戻ってもいいという医師の言葉を受けて帰ってきた。しかしそれは、言い換えれば『もう、この機会を逃せば自宅に帰ることはできない』という宣言でもあった。
僕は、父親から吸収できることを最大限吸収しようと躍起になった。実家にいるから、教えてもらえること。実家だから、実地で指導してもらえること。栽培の大筋から、細かなことから、豆知識にコツまで、いろんなことを父親に聞き漁った。

やがて、そんな日々も長くは続かず…体調を崩した父親は再度入院し、1週間でその生涯に幕を閉じた。最後に断末魔のように父親が叫んだのは、聞くことは叶わなかったが…僕の名だった。

僕は、生業とすることはできなくとも…父親と一緒に紡いだ記憶と知識を無くさないよう、苗の生産を小規模ながら続けていくことにした。その火を消さぬよう、日々情報をかき集め、実際に試験なども行い、僕はいつしか『苗の先生』と一部の人間からは呼ばれるようになっていた。
僕は自ら作った苗を地元の朝市などに出品していて、僕の苗は枯れないと評判になり、その僕の苗を指名買いしてくれる人が出るほどになっていたため、そんなふうにも呼ばれたのだろう。

その頃には僕は、園芸店に勤めていた。なまじ知識とプライドがあるせいで、上の人間には目をつけられ、嫌がらせを受けたり粗末な扱いを受けていた。その日々の中で精神は疲弊し、僕は大好きだった苗づくりにも力が入らなくなり、段々縮小して、その後は撤退してしまっていた。

苗も作れない、職場でも酷い扱い、こんな僕に意味などあるのだろうか…そんなふうに日々考えては落ち込み、毎日が辛くて仕方なくなっていった。それでも植物が大好きな気持ちは抑えられず、お客様に野菜や花の育て方を訊かれて話している間はとても楽しく、つい長話になってしまってこっぴどく怒られたりもした。
僕の栽培方法は、よく本やマニュアルで紹介されているのとは少し…いや、だいぶ違った。父親と一緒になって、実際に実地で育ててみたレポートからの情報だったから、他のスタッフさんからは『また何か適当なことを言って…』と、嫌がられることもあった。

ある日、僕のそんな日々に光明を差すきっかけが訪れた。白菜を育ててみたけれどうまくはいかない…スタッフさんに聞いたけれど、その通りやってもあまり変わらない、どうしよう…というものだった。僕はそのお客さんから栽培をどのように行っているかを訊き、改善点と与える肥料を伝え、注意点とちょっとのコツを伝えた。
この時にも、『また適当を…』と、他のスタッフさんは呆れ顔。そして僕はその日、仲間はずれを食らった。

しかし、その2週間くらい後。そのお客さんが再度来店し、僕の元へ歩んできた。僕は、『やはりマニュアル通りじゃないから、うまくいかなかったのかな…』なんて思っていると、そのお客さんは満面の笑みを浮かべ、僕の手を両手で握ってこう言った。
『お兄ちゃんの言う通りにやってみたら、すごい調子よく育ったよ‼︎助かった、ありがとう‼︎』

自信をなくし、疲れ切って、苗の生産からも撤退し…そんな僕でも、得てきた知識は…父親と過ごしてきた時間で僕に染み込んできた情熱は、決して無駄じゃなかった…
それを、この時に僕は時間したと同時に、それが人の役にしっかり立てていたのだと言うことが、すごくすごく嬉しかった。
その時には見えなくても、ちゃんと人にはつたわり、浸透している。

今は僕はその職場を去っていますが、僕の芯には、父親と共に築き上げてきた『植物のプライド』がある。
どんな日々を越えようと、どんな生活をしていようと、決して消えることはないだろう。
そして、僕の『おせっかい癖』も。

僕の知識がこれからも、誰かの菜園生活を、花いっぱいのお庭を、少しでもサポートできることを切に願って。

#誰かの役に立てたこと

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