見出し画像

狐の嫁入り

深山の岨《そば》に寄り掛かって往生しているところだった。

低木の枝葉がもたげた陰の祠が不意に目に入ってきた。どうしてか今まで気がつかなかった。

尾根筋と谷筋が狭窄しながら組みあった山中の辺り一遍に天気雨が降りかかった。蝉時雨が響き渡るところに散らばった柔い雨粒だった。

雨粒に涼みながら、酷く痛めた脚を一撫で、俺はこれから一体どうなるのだろうかと思った。遭難したのにも関わらず、妙にまたいだ気持ちは起こらない。

晴れ晴れとした空を見上げた。この山中に降る天気雨には謂《いわ》れがある。天気雨が降る昼には、狐の嫁入りが開かれる。蛙や蛇が振舞われる。欠けた杯に酒も注がれる。山桃や山葡萄も皿にのる。祖父からそんな話を聞いた。

山葡萄、昔はみんなで良く山葡萄を摘みにいった。それほど深い山に入っていかなくても、昔は時節がくれば郷に近い麓にも生ったものだ。髪飾りのようにすそ野に散らばった、あの紫色が懐かしい。

ああ、昔みんなで取りに行った山葡萄の酸っぱい味が懐かしかった。思えば遠くへ来てしまったものだ。野にくつろげた膝を枕に寝ている、大腿骨のような銃身を撫でた。

猟銃には散弾が一つだけ入っている。猟師と言っても、今は県の助成金で、山に増えすぎた鹿を打ち殺すただの鉄炮打ちだ。仕留めた尾っぽを役場に持っていくと、アルミの白い手提げ箱から一万円が出てくる。受け取った万札を猟友会の封筒に貯めて、年末には日帰りの慰安旅行に行って酒を飲む。こんな生業が猟師と言えるか。猟師というのは山の知恵者なんだ。誰よりも山を知り、山を鎮め、山郷の安寧を祝う生業が猟師というものじゃないのか。それが今のお前はどうだ。足元の隠れた崖にも気付かず、滑って落っこちたのが今のざまじゃないか。

俺は山を知らなくなり、山に俺は知られなくなった。猟銃の銃口が額に伸びる。どうせ俺のような遭難者は迷惑がられる。足に引き金を引っ掛けようともがき始めた矢先だった。幼い子供が話しかけてくる声がまのあたりから聞こえて来た。

「ねえねえどうしたの?」
「どうしてそんなことしているの?」
「そんなことしてないで、比奈原の姉さんの嫁入りを一緒に観に行こうよ」

雨は止んでいた。
着物に帯を巻いた二人の童だった。
深山に童と思ったが、とうとう俺にも此彼の境地が見えてきたかと、むしろ安堵を得た気がした。童の言葉に応じてみせる。

「行きたいのはやまやまだが足がな」
「そんなの。どうってことないわ。」
「さあ、立ち上がって私達と一緒に行きましょう。」

童らに手を引かれると、軽やか腰は浮かび上がった。童らに引かれるがままにして、ずんずん山みちを進んでいく。はたから新たな童も加わり、気づけば大勢のたまになっていた。でんぐり返しを始める童。尾っぽや耳のはえた童もいる。山桃のかぐわしい匂いがする。山葡萄のいい匂いも漂ってきた。グツグツと鍋が炊かれる飯場を越えると、林中、酒席がもうけてあった。
「さあ、ここが披露宴よ。」
「比奈原の姉さん!人間もお祝いにきてくれたよ!」
「まあ、人間さんが来るなんて、なんて珍しいことなんでしょう。嬉しいわ、人間様まできてくれるなんて。急いで席を作りましょう。」
艶やかな桃色の単衣を着た、狐耳の生えた美しい娘が上座からこちらに声をかけた。隣には婿と思しき狐が、大振りの衣に体躯を通して、威風堂々座っている。

そこから烏帽子やら羽織袴やらを身につけた、山の動物たちの御膳が仕立ててある。空いたところに同じ席が設けられる。紋付袴の熊と猪と、隣り合わせの席だった。ちらと俺の銃を見て、ご両人は愉快そうに口もとをあげた。

「ではまず私共から料理を振舞いましょう。」
なぜか席が1つだけ空いたまま、酒宴の祝いがはじまった。まずは隣の猪が立ちあがる。
「我が一族からは脂ののった腹身を振る舞いましょう。一族中、今年一番盛りの上がったものの腹身で御座います。みなさんどうぞとくとお召し上がりくださいませ。」
「まあ、美味しそうだわ、猪さん。こんなにたんと猪肉があがれることなんて滅多にありません。喜んで頂戴いたしますわ。」
狐の童が給仕する。これは猪の肉ではないか。一つ手を合わせた後は、皆何も言わずに端をつけている。猪はまた腰をおろした。ひょっとしてこの猪は、酒宴に同族の肉を捧げたのか?
「おいお前、失礼だぞ端をつけないのか?」
隣の熊が私をつつく。得体の知れない気持ちになったが、言われるがままに箸をつける。確かに上等な猪肉だ。今はとんと食べなくなったが、猪といえば俺の好物で、それで俺の宿敵だった。山深く潜むあいつらの知恵の深さに翻弄されながら、とうとう追い詰めた時の、あのもの哀しい気持ちは今でも忘れられない。ばらした亡骸を背負って郷に戻った時、喜ぶ皆を迎えられると快活な笑顔が浮かんだものだ。つい最近殺した猪は、郷に迷い込んだ若猪だった。小学校が近くにあったから、危ないということで銃殺指令が下った。もとはといえば、俺たちが山の世話を怠ったせいで、山の事情が変わったからじゃないのか。

「ふう、旨かった。続いて私。私が振る舞うのは熊の胆の精進雑炊でございます。同族の中から一番健康そうなのを選んで、よく練り上げた熊の胆であります。少し苦味がありますが、温かいうちに召し上がって下さいませ。」
「まあ、これは美容に良さそうね。この苦味も一度食べたら忘れられない。ありがとう、熊さん。大事に食べさせてもらいますわ。」
熊といえば恐ろしい話をいくつも聞いて育ってきた。長じて猟師になってからは、畏怖と羨望の思いを両方向けたものだった。いつか奴らのように、山を知り尽くしたものになりたい。奴らのようになりきるのが、我ら猟師の夢だった。熊の胆なんて、一体いつ以来だろうか。箸で雑炊をすすりながら、気がつけば頰を涙が伝っていた。俺は奴らのようになれただろうか。馬鹿言えさっき崖からおちたばかりじゃないか。

次は柔和な顔に烏帽子を被った鹿が立った。鹿は静かに祝いの言葉と捧げ物の目録を述べあげると、ここに狼さまがいないのが矢張り悲しいと一言言った。馬鹿いえ狼はお前たちの天敵だったはずだろうと思ったが、俺は特別大盛りの鹿肉の皿の前で縮こまってしまった。きっと一席だけ空いたあの御膳は、ニホンオオカミの席だったのだ。病のためもあったものの、殺したのは矢張り俺たちだったのだ。
「さあ、次は人間さんの番ですよ。」
それを聞くとゆっくりと立ち上がった。立ち上がるや否や許してくれと叫び立てた。額を地面に擦り付け、気づけば泣き叫びながら許しを乞うていた。
あなたたちの中で、俺たちだけが義務を忘れてしまった。俺たちだけが皆で腸を突き合う生き方を捨てててしまった。酒宴に招かれたのはありがたい限りだが、本当は招かれる資格もない。貴方たちに送っても恥ずかしく無いようなものは何も持ち合わせていないが、どうか私の身を捧げるからそれでこの場は許してほしい、と。
酒宴が暫く沈黙する。すると皆がどっと笑った。なるほど、道理で最近人間が酒宴に現れないと思ったが、そういえばお前たちだけが太古の約束を忘れて、俺たちや山にむごい行いをするようになっていたな、と。
「だが人間殿。だからと言ってこれは貴方様の血肉を捧げたからといってすむ話ではございませんよ。」
狐の婿が残忍そうな口もとを上げながら酒宴の主として私にいった。
「それに、酒宴に招かれた貴方様の肉を食べるわけには参りませんし、人間の肉などすかすかしてて酒宴に供していいようなものではありません。ですがそのかわりその膝元に置いた黒い火を吹くそれを頂戴いたしましょう。それは貴方と私達の絆の具象。聞けば人間は不在の在を強く感じる生命とのこと。ならば絆は取り上げてこそ強く感ぜられるものでありましょう。安心してください、人間殿。たとえ貴方たちが約束を忘れても、私たちは深く結びついています。今は絆は不在ですが、不在の在だけは忘れることのありませぬよう、どうかもう二度と取り上げられた具象を貴方様がお取りになさらぬよう願っています。私たち二人の祝言を祝ってくれてありがとうございました。どうか無事に郷に帰れるよう祈っております。では、どうぞお達者で」

目覚めると、雨降りの前と変わらず足を痛めたまま岨に寄りかかっていた。不思議な夢だった。あれは本当に夢だったのだろうか?

「あ、おい!いたぞ!じーちゃん!」
岨の上から若い衆の声が聞こえてきた。
「無事か?」
若い衆は崖を滑り降りてきて、手を取って俺の肩を背負った。じきにもう一人現れて、もう片方の肩を担う。
「おい、足怪我してるじゃねえか?どうしたんだよ。もう歳なんだから、一人で山の中に入っちゃだめだよ。そういえば銃は?」
「崖から落っこちた時に木に引っかかった。あそこの枝にぶら下がってる。」
若い衆は高い枝を見上げてため息をついた。
「まあ、いいや。取り敢えず山を下ろう。銃のことは後でいいよね、爺ちゃん。」
「ああ。今度手元に戻ってきたら、お前たちの言う通り返還するわ。」
「よかったあ。やっと決心してくれたんだね。それが聞けたなら今回の遭難沙汰も甲斐があったってもんだよ。」
信心深い若い衆の一人が、何を思ったのそこの祠に手を合わせる。きっと俺が銃を手放す気になったのを、祠のおかげだと思って手を合わせているんだろう。
「さあ、爺ちゃん。山を降りよう。」
だが結局、また山に入った若い衆によれば、銃は見つけられなかったらしい。そのことを嫁に話すと
「そりゃあんた!若い者があんたがまた銃を欲しがるのを恐がってるだけだよ!素直に従って、返す手続きだけしとけばいいのさ!」

あれ以来、俺が山に入ることはもうなくなった。だが若い衆にもやる気のある奴がいる。猟友会だか林業だか観光振興だか、とにかく若いやつが時たまきて、山について分からないことを俺に尋ねてくる。もう山にはずっと歳だったから、俺に教えられることはなにもないと思っていると、自分でも驚くぐらいつらつらと山についての言葉が出てくる。沢の流れ。獣が川石を覆す音。高山植物が岩肌から太陽を見上げている様子。木肌の一つ一つが目の前に露わに姿をくつろげて、林立の間を自由に駆け回り、いずれ頂きから景色を見下ろすと、雄大な山の姿がいつも目の前に広がっていたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?