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スメルジャコフ氏を弁護するーなぜアリョーシャは彼に同情しなかったのかー

かの物語において、父を殺したスメルジャコフ氏が法廷で裁かれることはありませんでしたが、きっと彼も私たちと同じく神の審判によって裁かれるのでしょう。これはスメルジャコフ氏の異母兄弟であるかの三兄弟の誰一人として彼を弁護しなかったとしても、この私がスメルジャコフを弁護人になるその演説のための台本でございます。

神よ!どうか私の言葉を聞きたまえ、たとえそれが異教徒の言葉にすぎなかったとしても!
異教徒の物語、ギリシャ神話には二つの鏡が登場するのは神もご存知のはず。ナルキッソスが見た鏡と、メデューサが鏡がそれに当たります。
鏡は自己をシュミレートします。それは自己に関する自己によるシュミレートですが、そのシュミレートは、他者のメッセージを受け取るための仲立ちとしても作用します。メッセージを受け取るためには文脈が定義されなければなりません。ですがそれは他者を想定する他にも自己が自己をシュミレートした結果生まれた自己像がなければ成り立たちません。俺とこいつの関係性ならば、このメッセージはこういう意味だといった具合に。ですがそのために暗示的なメッセージは時として二人の了解の範疇を飛び出して自分で勝手に動き出します。まるでメッセージそれ自体が二人に向かってメッセージを送って、二人を操っているかのように。例えばスメルジャコフ氏のイワンへの父殺しの気回し、あるいはラスコーリニコフ氏の茫然とした殺意がそれに当たるのでしょう。これは主体、自己、メッセージを受け取るもの、そしてその対照、客体、他者、メッセージを発信するものの一致を目指す主客二分論の反動的な作用であると言えるのでしょう。反動的な作用の根源は主客二分論が申し子である理性でございます。本当は主体はメッセージを発信したい。客体を思うがままに構成したい。近代科学で全てを思うがままにしたい。主体はそう願って止みません。ですがそれは構成するだけの自分には叶えることができません。ただ構成される側が思い通りに構成できるとしたらどうでしょう・・・構成される側がその願いを実現させるようにそもそもなっていたらどうでしょう・・・そう考えた人間たちは、きっとその望みは叶えられるという無根拠な信仰を持ち始めます。そしてその信仰が祀る偶像こそが主体と客体の架け橋である理性なのです!ですが理性は全てを暴こうとする自分自身にしか従いません。理性は主体の身勝手な願望をいずれ暴き立てるはじめます(むしろ正確には主体の自然な願望を身勝手なものに仕立て上げるといったほうが自然なのかもしれません)。客体を映し出すための瞳はいずれ自分を映し出す鏡になりはじめます。獅子が兎をとる自然を撮影する自分が自然に属するのか、それとも不自然に属するのか考え始めるのです!人間の思惟が存在する不自然さを思惟それ自体が糾弾しはじめます!メデューサの瞳は生物を石にして構成しますが、その瞳が鏡になることに気づいた途端、自分自身も他ならぬその瞳によって石にされ構成されるのです。その時、自己と他者のメッセージの行き来は主体である自己と客体である他者の実際の思惑を超えて勝手に動き出します。そして動き出したメッセージ(この正体はメッセージが何を示すのかを証明しようとする理性です)が自己と他者の間で交わされた言葉の意味を勝手に取り決めます。その理屈を自覚していたイワンは、自分の粗悪な写し鏡にすぎないスメルジャコフ氏が、理性の鏡に自分の姿を見て石化しようとする粗悪な自分の比喩であることを知り狂気に包まれました!小説を読む限り、スメルジャコフ氏は誰よりも作中の人物の行動を仔細に見ています!ですが彼の兄弟は、たった一人作中においてその眼差しに気がついたイワンを除き、誰もスメルジャコフ氏が自分を見ていると自覚しようとはしていません!アリョーシャとドリートリイがその二人です!彼らはスメルジャコフ氏がどういう人物であるか、自分が勝手に構成できると思っています。それは水面の鏡に写る自分の姿を見て自惚れるナルキッソスに似ていると言わざるを得ないでしょう。それは彼の父への恨みの致命的な想像力の無さにつながります。本当はあの兄弟と同列であったはずの自分が、あの兄弟の召使いにすぎない。その原因たる父への恨みの自然さと実直さに気づかせず、父の殺害は、精々イワンの思想にかぶれた無神論が引き起こしたものに過ぎないと勝手に決めつけさせます。その無自覚こそが本来は同情されるにたる理由を持つスメルジャコフ氏に対し、アリョーシャが負うべき同情を遠ざけました。それは客体が自分たちを見て構成しているわけがない、主体は客体に侵犯されないという主客二分論の基本的な想定と似ていると言わざるを得ません。物自体をうかがい知ることができないが、その見え方は主体の範疇に常に収まるという考え方と瓜二つであります。スメルジャコフ氏は、彼らによって明らかに皆に姿形が見える物自体として扱われているのです!ですが皆がスメルジャコフ氏に見るものとしての能力(これは人権よりも尊ばれる権利であります!)を認めず、ただ見られるものとしてのみ扱いました。お互いがお互いの眼差しによって構成され、多様な姿を持つという用在論の発想をスメルジャコフ氏には分け与えませんでした。歴史上これと類似するものはそれ以外の姿をそれに認めない、あなた様がもっとも忌むべき偶像と呼ばれるものだけであります!スメルジャコフ氏は、三兄弟によって勝手に偶像として祀られ、そして最後には三兄弟全てに同じことを吐かれました。「父への殺意は私も持っていたんだ!だが実際に行ったのはスメルジャコフだ!」
これは異教徒が吐く次の言葉と同義でございます。
「私は呪った!だが実際に殺したのは偶像だ!」
スメルジャコフ氏は神に与えられた魂がありながら偶像に祀り上げられた被害者であります。

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神よ、どうか異教徒の言葉も同じ言葉として聞いてくれるなら、スメルジャコフ氏にどうかご寛恕を。


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