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狐に助けてもらった話

部屋陰から斜に見た網戸の向うに、さあと激しい雨脚が立ち始めた。
網戸の一目一目に区切られた綿密な景色を、ぼかすような大雨だった。
部屋隅にひっつくようにして、僕は部屋からあぶれていた。
夏の暑さがよいよいと賑やかしい車座で部屋の央に居た。雨で彼らが去った。
にもかかわらず、今も部屋の隅が居心地が良い。

掌中をもてあそぶ僕のフリックは暇すらも使いこなせず、だがいよいよ異様な大雨になってくる。
裏庭から聳える狭山の土砂が崩れるような気持ちが大雨になるといつもする。
そういえば近づいてくるはずの台風は通年よりも大きかった気がした。

雨が降ると山の息吹が近くなる。雨滴を吸った森が立ちあがるように色合いが深くなり、倒れこむように古い集落に殺到してくる。
その近さの名残を、雨が降り終わった後、今のように暇だと何かにつけてよく見にいく。夜でも森の艶美な香りが匂い立っている気にいつもなる。

夜道をゆくと、暗く、星明かりも見えず、ただ雨があばいた路のちりほこりの匂いだけが暫くはし続ける。

自動販売機の明りに差し掛かったところの横断歩道の手前で道を渡った。自動販売機の前には品の良さそうな老女が困ったような様子で立っていた。
通りがかりに悟った様子で近づくと、「どうやって買えばいいのか分からないんです。」恥ずかしげな面もちで聞いてきた。「主人に飲み物を買おうと思っているんですけど、お金を入れても分からなくて」と、こんな夜更けに異様な思いもしたが、まあ田舎だからこんなこともあるだろうと僕は販売機を確かめた。だが販売機の様子がおかしい。お金を入れたのにもかかわらず、何も反応を起こしてはいないようだ。
「お金は入れたんですよね?」
「入れました。」
「ボタンはひかりましたか。」
「ひかりました。」
「それでボタンは押しましたか?」
「押しました。」
「にもかかわらず、商品が出てこないのですか。」
故障ですかね?老女にそう聞かれた時、販売機の下の出口に腕を伸ばしていた。案の定、ものの感触がそこにあった。
「どうやらもう買えていたらしいですね。」
僕は引っ張り上げたお茶を彼女に差し出した。
「ありがとうございました。あの、お釣りはいらないですから。」
老女は受け取ると辞儀をしてそそくさと横断歩道を渡っていった。
狐に化かされたような思いがしたが、釣り銭の出し口には一切関わらず放置した。

ついで自分の用を足しにかかる。併設の販売機に財布から小銭を入れる。どうも硬貨が一枚足りない。顔を余計にうつ向けながら、さきの出し口につい手が伸びてしまった。だが釣り銭は一枚も入っていない。代わりに掌中でくしゃっと枯れ葉が潰れる音が聞こえてきた。
結局飲み物も買えず、もう少しいえば艶美な匂いとやらもかげず、元来た道を戻ることになった。
帰路、新しい葉のついた枝を振り回しながら歩く小学生ぐらいの子供とすれ違った。もう片方にジュースの入った缶を持って笑いながら歩く子供を見た。
こんな時間にあれぐらいの子供とすれ違うことなんて初めてだ。不思議に思った。まさかさっきから俺は本当に狐に化かされてるんじゃあるまいな、と。

そんなことを思いつつ、無事家に着くと、居間ではもうそろそろ銀婚を迎えそうな父母が、夜も更けたのにテレビを見ながらともに笑っている。それを通り過ぎて自室に戻ると、いい加減ご機嫌を損ねないラインを彼女に送らなければと腹を据える時がおとずれた。
狐に化かされそうになった話に引っ掛けた謝罪の文面を、狭い行の中で綿密に考えた。
「まあ、私を怒らせるところを、きっと裏山から見ててくれた女狐がいたのよ。」
と色よい返事が返って来て一安心する。その時鼻に引っ掛けた親指からは、先の落ち葉の、深い落ち着いた匂いがしてきたのだった。


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