見出し画像

つまり、そういうことだ③

これは実際にあった話だ。
ある女が信じている宗教があった。
カリスマ的な指導者が革新的なリーダーシップで組織を拡大し、教団は大勢の人に信じられていた。
その女も熱心な信者だった。
やがて教団は国政政党を持つほどに生長した。
ある時、未知のウイルスがパンデミックした。
その国政政党は、対策として国民にある医薬品の摂取を推進した。
医薬品は効果も危険性も明らかではなく、その実体に警鐘を鳴らす専門家も少なくはなかった。
実際に医薬品を摂取したあとで、体調が悪くなったり急進性のガンになる人も少なくなかった。
しかし国は関連性を認めず、医薬品推進の前提となっていた補償も、ろくにされてはいなかった。
件の女も体調が悪くなり、その夫に至っては長期入院を必要とするレベルの内臓疾患に蝕まれ、退院後も具合は芳しくない。
それでも女は、医薬品の摂取をやめる気は毛頭なく、夫もそれに準じている。
夫婦して「教団が支持する政党が決めた政策」は、意地でも支持する姿勢だ。
摂取した直後に家族が身体を壊し、同志や友人に死者が出ても、それは別の原因があるのだと信じている。
なぜなら大前提として「教団がやることに間違いは無く、困難に見舞われることはあっても、最後には必ず『大勝利』する」と信じているからだ。
大勝利とは、元来は家族が幸せに暮らし、友人や仲間がイキイキと目標に向かい、世界が平和になることだったはずだ。
しかし今や夫婦にとっての大勝利は、死ぬまで教団に疑いを持たないことにすりかえられている。
誰がすりかえたのか。自分自身だ。

つまり、一度信じ込んだことを、脳は覆さない。
信じ込むとは「生命の維持(生きるため)に必要と(無意識に)決めつけ、慣行を堅持する」ということだ。
その「プログラム」を覆すことを、「自分の生命を危険に晒す行為」と感じるように、脳という臓器は造られている。
プログラムを覆さないためなら、脳はどんなことでもやってしまう。
信じたことを「正しいこと」にするためには、自分や親しい人の生命を犠牲にすることをも厭わないのだ。
要するに目的よりも、プログラムの維持そのものを優先する。

おまえの脳は、おまえではない。
おまえは、自分に信念にのっとって運命を切り拓いていると信じている。
しかし、その信念も運命も、おまえではない。
交通標識や寺の掲示板に貼られてる名言や意識高い系コマーシャルがおまえでないように。
おまえは、おまえでしかないんだ。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?