〈マレーシア紀行4〉賭博暁暗録クアラルンプール
〈CHAPTER4〉 遠望の丘
――5月21日 現地時間で午後5時30分
クアラルンプール郊外の家。必要以上にクーラーのきいた殺風景な部屋。
滝のような汗が、シャツの背中をべっとりと貼りつかせている。
無理もない。
日本円にして600万円もの金を賭けて、ブラック・ジャックをしているのだ。
勝負も大詰め。目の前のカードをめくれば勝ちが確定するのに、マリックに手を握られたまま、私は硬直している。
最後の勝負。
相手のカードは19。私は21。
開けば、勝ちだ。
しかし、この状態は・・・・・・。
マリックが何か言っている。早口の英語で聞きとれない。
ディーラーの老人がゆっくり私に話す。
「彼は君が本当に金を持っているのか、確認したがっている。もしくは相応の金塊か、ダイヤモンドを見せなければならない。」
600万円分の金塊? ダイヤ?
誰だと思っている。自慢じゃないが金なら、無い。
金持ちになりたかった。
訪問販売では金持ちになれなかった。
リクルートの営業でてっぺんを獲っても、思ったような金持ちにはならなかった。
金持ちになったから、どうなるという訳でもないが、何も無い自分はせめて金くらい稼いでいないとダメなんじゃないかと思っただけだ。
彼女が別れを告げたあの日、私は彼女に結婚を申し込むつもりだった。
男と別れて仕事のために海外に行くと告げに来た女にプロポーズしに来た男。安っぽいドラマのような悲喜劇だ。
どこまでもすれ違った心。彼女の気持ちに気づけなかったわけではない。
それでも、二人はずっと一緒にいるものだと思い込んでいた。
子供だったのだ。
今回、シンガポールに来る前から彼女には「シンガポールに来ても、結婚するとか無理だよ」と釘を刺されていた。
正直言って、深く傷ついた。そしてそれでも「会いに行こう」と思った。
ガキだった。
再会した彼女の手首には、白いオメガの時計が巻き付いていた。別れたばかりの元カレからもらったものだそうだ。
「別れたから、ベルトだけ変えようかなと思ったんだけど、やっぱりこのまま使うことにした」
タクシーの中で、なんでもない世間話のように聞かされた。
一週間の滞在に、二日間しか時間をとれないことを考えても、分かりきっていたことだ。
私の彼女だった彼女は、もう世界のどこにもいない。
私が前に進んだ分、彼女も前に進んだ。
彼女は使命感に燃えて確固たる自分の理想に向かい、私は意地になって、あてもない好奇心に従った。
一歩ごと、違う方向へ行った二人の足跡を思い浮かべてみる。
彼女の顔が見たくなった。
「今すぐに金を用意するのは、無理」と言った。賭博用の殺風景な部屋が、やけにチープに見えてきた。
老人とマリックは早口で言葉を交わす。マリックは何やら激昂している。大袈裟な身振り手振りで老人とおばさんも対応している。
二人の間で、どうやら話がついたようだ。
まずはお互い、自分が引いた2枚のカードを鏡合わせにして封筒に入れる。次に封筒にサインをし、封をする。それを金庫に保管した。
「金の用意が出来たら電話をくれ。カードを開こう」と言い残し、マリックは部屋を出た。
残った俺とおじいちゃんとおばちゃんは3人で相談をした。
「金さえ見せれば60000ドルが手に入る。おまえは、いくら持ってる?」
「せいぜい2万円くらい。おじいちゃんの友達に借りようや」
おばちゃんが、口をはさむ。
「ダメよ。おじいさんの友達はみんな貧乏人だから。アンタの日本の友達に送って貰えない?」
「いやいや送ってもらっても、ここじゃ受け取りようがない」
途方に暮れる3人。私だけは、目の前の2人とは違う理由で途方に暮れているわけだが。
老人が沈黙を破り、提案する。
「日本に帰ったら、友達からお金を借りて、我々に送ってくれないか。そしたら君が送ってくれたお金とマリックから巻き上げたお金を君に送るよ! 君の取り分は5割だ!!」
取り分が300万円に跳ね上がったのに反比例して、気持ちは冷え込んでいく。
「それでも間に合うの?」
「私がマリックに話をつけておくよ!」
老人はチャーミングなウィンクを送ってくる。
「分かった。 そうしよう。 でも、かなり時間はかかってしまうよ」
「ノー・プロブレム!」
そりゃそうだ。
「じゃあ、車で送って行くわ!」
おばちゃんが申し出た。
「あ、おばちゃん、そういえば埼玉に留学する妹さんは?」
そもそも、その子に会いに来たんだった。
「あぁ・・・・・・。今、病院に行ってるみたいだから、あの子がニホンに行ったら連絡させるわ!」
病気か。深く聞くのは良くない。話題を変えよう。
「分かった。妹さんは何処の大学に行くの?」
「ワセダよ」
優秀だ。それにしても、随分と遠くから通うんだな。
帰りの車の中、おばちゃんは何度も念を押す。
「いい? よく考えるのよ。私たちのカードは21、マリックは19。
お金さえ見せれば勝ちなんだからね!」
そうだよね。分かったよ。
「帰ったら一生懸命、お金を集めて、急いで送るよ」
車は街の中を明らかに、必要以上に何度も曲がり、最初に出会ったチャイナタウンで私を降ろした。おばちゃんたちは最後にまた念を押してから、去って行った。
見送る私の瞳には、来た道と違ってまっすぐ走っていく車の後ろ姿が映っている。
ハメたはずが、結局ハメられるイカサマ博打。2時間に渡る小冒険。
彼らは、いつまで私の送金を待っているのだろうか。
帰国後、シンガポールの彼女から「お母さんに電話であなたのことを話したら、『結婚しないの?』って聞かれたよ」とメールをもらった。
なんと返答したかは、もう忘れてしまった。
(おわり)
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