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母親の顔を見た瞬間、泣き叫ぶ少女。取り返しのつかない過ちに、刑事たちはようやく気付いた。

■4
 新潟北警察署に到着したのは午後三時近かった。子供たちがワンボックスから降りて元妻に引き渡されるまでの間、車内で待機させられた。
 現地には、会社員時代の先輩・Sさんがいた。弁護士と連絡がとれないのを見かねたM刑事が、「誰か信頼できる人に来てもらったらどうか」とアドバイスしてくれたのだ。刑事はふつう、こんな提案はしないものらしい。事件の解決を長引かせるだけだからだ。
 私からの連絡を受けて、Sさんは即座に動いてくれた。急ぎ新幹線に飛び乗ったSさんは、我々より先に新潟北警察署に到着して、主任らしき刑事と面談していた。同じころ、元妻は弁護士と両親を連れて同署で待機していた。母と私は違う階の一室に押し込まれた。
「イヤァァァァアアアアアアアアアア!!!」
 階下から、娘の絶叫が聞こえた。元妻の顔を見た瞬間、娘は絶望し、泣き叫んだのだった。あとでM刑事から、そう聞かされた。
 虐待父に連れ去られた子供を意気揚々と取り返してきた刑事たちは、母親との感動の再会シーンを思い浮かべていたが、それは目の前でもろくも打ち砕かれた。
 醜態をさらした元妻は一刻も早く連れ帰ろうとしたが、それをSさんが制止した。二階の部屋で、元妻と弁護士を相手に話し合いの席を設けることになった。
 Sさんは何度も二階と三階を往復し、私と元妻の両者の言い分のすり合わせに尽力してくれた。元妻に対しては子供たちとの交流の保証を、私に対しては養育費など金銭面での保証を取りつけようと公平に折衝した。これこそ「調停」だ。これが支援者だ。たんなる伝書鳩ではなく、歩み寄りを創出しようとする姿勢。
 この二年後、私は家裁での調停を経験するのだが、このとき接した調停員や弁護士は、Sさんの千分の一も子供のことを考えてはくれなかった。
 折衝は一時間以上に及んだ。元妻は感情的になっており、なかなか話が進まない。事態を打開すべく、Sさんは弁護士とサシで話し合うことにした。
 お得意様である女権団体。元妻はその中枢メンバーだ。かんたんで実入りのいい家事調停案件は、拉致支援弁護士にとってはドル箱だ。女権膨張の時勢と司法・行政のバグに寄生する拉致支援弁護士こそ、子供の幸せを踏みにじる人権弾圧者そのものなのだ。陰惨な仕事に手を染める彼らの仕事は、早晩断罪されることになるだろう。
 終始立ち会ったM刑事は、すっかり私たちに同情的になっていた。ほかの刑事がいないときは、「お父さん、もっとお母さんの酷いところとかなかったのか。先輩にもっと言ってもらいなよ」などと言ってくるほどだった。
 だが、Sさんの奮闘も虚しく、対話は平行線に終わった。娘が連れ去られる間際、私は上着のポケットに異物を感じた。それは、スーパーボールだった。高速のサービスエリアに立ち寄ったとき、娘が欲しがったので買ってあげたものだ。失くさないように預かっていてほしいと言われていたのを、渡しそびれていたのだ。
「Mさん、これをあの子に渡してくれ」
 M刑事は私の手からスーパーボールをひったくると、「なんでこんな大切なもの、もっと早く言わねえんだ」と怒鳴りながら娘のもとへ駆け出していった。
 母と私は、刑事たちの監視のもと、娘の背中を見送ることすら許されなかった。娘を見送ったM刑事は申し訳なさそうに一枚の紙を差し出した。それには「始末書」と書かれていた。今回の「騒動」の反省文と、もう二度としないという誓約を書けということだ。ラチベンの差し金らしい。
「これに法的な強制力はあるのか」と問うと「ない」と言いにくそうに答えた。
 私は「もう二度とこんなことをしなくて済むような世の中にしてください」と書き、署名をした。「この内容で文句があるなら署長と直で話すから連れてきてくれ」と言ったが、署長が来ることはなかった。

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