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出来っこないことやらなくちゃ

つい数ヶ月前までは物価の上昇などさほど気にならず、世間の騒がしさを横目に「何をそんな大げさな」と、遠くで鳴る花火の音を聞き流すくらいの白けさだったが、どうやら気付かぬうちに祭りへの参加を強制されていたらしく、それこそ今は後の祭りであり、なけなしの収入は息をするより簡単に消えていってしまう。卵1パック200円オーバーは地味にキツイ。これは鳥インフルエンザのせいもあるだろうが。

一人暮らしを始めてから貯金を成功させた試しはなく、給料日の翌日にはもう次の給料日を焦がれる始末で、給料日は金が入った嬉しさよりも、すぐになくなる虚しさのほうが強いのがもっぱらである。そして、何故こんなにも早く金がなくなってしまうのかを考えてみても、使途不明金が大いにあり、なにをこんなに買っているのか検討がつかないありさま。

そこで口座やクレジットカードと連携できる電子家計簿アプリを導入し、支払いのほとんどを電子で済ますように生活を変えた。全くもって便利である。今まで現金で支払いをしていたことがバカらしくなるほどスムーズで、小銭を必要以上に持つこともなくなりノンストレスフルだ。

更に電子で払うたびに家計簿アプリに自動で記帳され、レシートを溜め、眺める必要もなくなり、スクロールするだけで1ヶ月の支払い内容を確認できる。これを機に公共料金なんかも全て口座振替にしたりと、何だか自分がスマートになった気がして少しの優越を得た。

しかし、どうだろう。一向に金が貯まらないではないか。支払いと管理を微自動化し、ストレスから開放されたが、前とちっとも変わらない。むしろ以前よりギリギリでヒリヒリとしている。何故だ。

1つはやはり物価の上昇。特に光熱費のダメージは図りしれず、果たしてこれは本当に一人暮らしの代金なのかと目を疑わずにはいられなかった。確かに1度だけ不在中もエアコンを回しっぱなしにしてしまったが、それでもこんなになってしまうものなのか。こういう事も含めてつくづく某国の乱心には溜息が出る。

物価云々は「そうなってしまっている以上仕方ない」と少しばかりは諦めもつくが、2つ目の貯金出来ぬ要因はまさしく微自動化した為であり、まったくの自分のせいである。

金周りを電子化したが故に現物の金をさっぱり見なくなった。そのためサイズを忘れ、重さを忘れ、厚さは朧気で手触りは彼方に等しい。給料はディスプレイに映る数字でしかなく、そこに現物が介在する余地はない。

使った数字によって残りの数字が変わるだけのことである。教科書に載っていた算数の問題と何もかわらない。ただ実生活が苦しくなることを除いては。

つまるところ、慣れないことを意気揚々とイキがってするものではなく、慣れるまでは多少の犠牲はつきものなのだ。何事にも順序や段階があり、その中で生まれる犠牲を最小限に留めつつ試行を重ねるのがカシコイ人のやり方なのだろうが、残念なことに僕は自分の力量を見誤っていたらしい。

少しばかりパソコンやらスマホが使えたくらいで電子に慣れているつもりでいたが、所詮は後追い無検定のアラサーであり、デジタルネイティブなんて二つ名を与えられる前の世代、つまりは旧型というわけだ。

学生時代に聴いていたバンドの曲で『1つ歳をとると 知らないことも増えて』という歌詞があった。10代当時は「何を言っとるだ。大人の方が経験が豊富なのだから、知っていることも多いだろうに」と思っていたが、大人になって幾年、”知った”ことは微々たるもので”知らない”世界が宇宙速度で広がっている。

その一つに上記のことがある。世間のスピードとは恐ろしく、また、大人の吸収スピードは愚鈍だと痛感する。”知っている”ことが多い分、スピードはより一層減速する。良くも悪くもこだわりが出てくる分、反応が2歩も3歩も遅れる。旧型は自分の愚鈍さを忘れてはいけない。僕が貯金できないのは、自分の愚鈍さにあった。

少しばかりスマートになったと特別感を得てイキっていたことは、下の世代にとっては当たり前のことなのかも知れない。新しいことは増え続ける。とすれば”知らない”ことが増え続けるという事であり、もしかすると当たり前だったものが減っていくという事も無きにしも非ずだ。だから旧型こそ、差しさわりのない事に対しては謙虚に愚直にあるべきだと、貯金という犠牲を払ったおかげで認識できた、と前向きにとらえよう。


ちなみに昨日の夕飯はコンビニで買った。
しめて2000円。

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