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私の原点

注: この文章は結構長いです。

数年前、長野県で農業に従事していた。
川上村という村だ。
全国のレタス出荷量で圧倒的  No.1 を誇り
世帯年収が平均約 2000万円と言われ、各メディアからは
「奇跡の村」
と賞賛の嵐を受けた村である。

「奇跡の村」

非常に甘美な表現である。
選民思想をくすぐるではないか。

だが、この村の別名をご存知だろうか。
長野県川上村の別名は
「奴隷村」
である。

最初に断っておきたい。
私はこの村を卑下するつもりは全くない。
単なる事実である。

私が季節労働者として厄介になった農家で
奴隷的な扱いは受けてはいない。

ただそういう農家もおそらくあるのだろう。

これから話すことは、そういった話ではない。
人の中で繋がりを持って生きるとはどういうことか?
そのことについて話をしたい。

研究者になれなかった者

実は、研究者になろうとしていた。
教育実習を終えた私は、当時それほど教育に熱意を持てなかった。
同時に、学部の 3 回生の頃から研究の面白さに気づきはじめ、次第に研究に没頭していった。

学部は教育学部だったのだが、私の専攻した学部の教授はゴリゴリの有機合成の研究者で、教育学部のやってる内容なんてお構いなしな人だった。
その教授に
「研究とは何か?」
について本当に様々なことを教わった。

学部の 4 年生になると、私は院生に負けなくらい研究していた。
卒業論文に必要なデータは 6 月くらいには揃っていて、院で行う予定の研究に取り掛かっていた。

進学する際は、他の大学院への進学も考えた。
当時 iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥先生の基礎研究を支えた奈良先端科学技術大学大学院に進学を考えたが、専門分野が違いすぎたのと、やはりその教授の元で研究したいと思い、自分の大学院に進学した。

盲目的に研究していた。

院に入っても変わらず研究に没頭していたが、だんだん研究に対して熱意を持てなくなってきている自分がいるのもわかっていた。

きっかけは、ある友人の一言だった。

「そんな目に見えない化学物質を作って、本当に楽しいの?」
「 その作った薬を細胞レベルで投与したり、マウスに投与して本格的に結果が見えてるの? 」

友人は嫌味ではなく、単純な興味からそう聞いたらしい。なんでこいつはそんなにも楽しんでやっているのだろう?と不思議でしょうがなかったらしい。
私はこのとき気づいた。
確かに研究は、やってて楽しいしそこそこ没頭できることでもある。
しかし、私がやっていることは

自分の興味本位からくるものではなく
ただ、教授の指示通りに実験をした結果
それが世界初の物質で大変合成するのが困難で
ガン治療に非常に役に立つかもしれない

というだけのものだった。
その物質が何かに非常に役に立つ可能性は否めないが、その物質を発明し合成経路を作成したのは、自分ではない。
教授である。
確かに、大学院生なんて皆所詮教授のてごだ。
そういう経験も含めて、後に本当にやりたい研究に着手するのであろう。
しかし、私は、友人の一言で
「あれ。何やってるんだろう?」
と思ってしまったのは紛れもない事実である。

誤解のないように書いておくが、モノづくりは好きである。

しかしなんというか、この化学合成によるモノづくりは多分そんなに好きじゃなかったんだと思う。というより、薬学や医療分野にそこまで興味がなかったのだ。

私は決断に迫られた。
このまま、大学院で研究を続けるのか ? それとも、自分のやり残していることに挑戦するのか ? 。

答えは明白だった。
私は研究者にはなれない。

長野へ

大学院を速攻で退学し、自分のやりたいことを洗い出してみた。

農業
酪農
漁師
陸上自衛隊
高校の教師
プログラマー
...


当時パッと思い浮かんだのは、この辺だろう。
農業には幼い頃からずっと憧れがあった。
田舎での生活を夢見ていたからだ。
中途半端な郊外で育った私にとって、田舎の存在は憧景そのものだった。

長野を選んだ理由は特になかった。
正直農業ができるならどこでもよかった。
ただ、高校から嵩んだ奨学金を返済する必要もあったので、衣食住を保証してくれる住み込みのバイトを選択した。
農業の知識も入って、お金も貯まる。
一石二鳥とはまさにこのこと。
と思い、全ての準備を整えて長野へ向かった。

今までの自分に相当な自信があった私は、何も感じていないふりをしていたかもしれない。
出発前夜、姉に言われた一言で急激に焦燥感に駆られた。

「本当に大学院辞めていいの?」

私は強がっていたかもしれない。
姉には、もう決まったことだと告げ
長年育った地元である大阪をあとにした。

長野に向かう道中、多分 中津川 を越えたあたりだと思う。
ちょうど夏休みの時期で、単線の車内には、幸せなそうな家族がたくさんいた。
お父さんやお母さんは、子供たちの勢いに疲れ切っていた。
でも、その光景は何よりも幸せそうだった。
私は、そんな彼らを直視できなかった。

自分の下した決断は果たして正しかったのか?
とんでもない道に足を突っ込んでしまったのではないだろうか?
何も成しえていない小僧に何ができるっていうのだろうか?

必死で自分を正当化した。
車内にいる人たちは皆、例外なく幸せだっただろう。
その空間において、私は唯一の異物だったに違いない。

ずっと外を眺めていたが、急峻な峡谷特有の絶景は何一つ記憶に残っていない。

天空の村

到着した。
最終到達地点は、信濃川上という駅である。
お世話になる農家はまだ到着していなかったので、トイレを済ませておこうと思った。
個室に入り、戦慄が走った。
トイレの個室いや、用を足そうとするまで全く気づかなかったが、トイレ全体に、呪いの落書きが所狭しと記述されていたからだ
かつて季節労働で働いた人たちが、不遇な扱いを受けたことによって被ったさまざまな仕打ちを書き残していた。
100 % 純粋な 恨み だった。
そそくさと用を済ませ、その場から退却した。
同時に猛烈な不安が押し寄せきた。
しかし、後にも引けないのも事実。
私は前に進むしかない。
不安に押しつぶされそうになりながら、ひたすら農家の人の到着を待った。

程なくして、 1 台の車がやってきた。
昔やんちゃだったであろう女性が登場した。
『君が よしまつ くん?』
 (注: 私は 吉松 と言います。)

と話しかけられ、適当なやりとりをして車に乗り込んだ。

道中の会話は、覚えていない。
というか会話してたかどうかも覚えていない。
ぐんぐんと最果てに進んでいく。
ああこれはそう簡単に逃げられないなぁ。
と思ったことだけは覚えている。

目的地に到着した。
標高約 1300 m の集落だ。
到着してすぐに、離れに案内された。
(川上村のほとんどの農家は、季節労働者を雇うことが一般的なので、どこの農家も離れを持っている。)
そうこうしていると親方が帰ってきたので、挨拶をしにいった。
(どうでもいいが、親方は結構男前である)
寡黙な印象というのが、第一印象だった。
そして何より、歓迎されていないということだけはわかった。

午前 2 時

皆さんは農業についてどれくらい詳しいだろうか。
実は農業というのは
作るものによって全然スタイルが違う

恥ずかしながら私は、農業に憧れながら
その実、何も知らなかったと言っていい。
なんとなく『まあ朝早いんだろう。』 程度の認識だったのだ。
全くの間違いだった。
集合は 早くて 2 時、普通は 3 時だ。
親方一家は  1 時から仕事をする。

少し補足します。
高原野菜 [ キャベツ・白菜・レタスなど ] というものは
気候の寒暖差が葉っぱの伸縮に深く関係する。
ということは、寒暖差が大きいほどよい。
となると昼はもの凄く暑く、夜明け前には夏とは思えないほど冷える高原地帯が最もよく育つ。( 真夏の最も冷えた朝は、記憶している限りで  約 11 ℃ )

だから、長野県は全国で No.1 なのである。

そして、早朝(というか深夜に)収穫する理由は
単純に収穫量が半端なく多い(人数当たり)
朝収穫すると、余分なエネルギーを消費しないので鮮度が保てる

だと認識している (違ったらごめんなさい。)

話を戻します。
午前 2 時、起床する。
支度を済ませ、山に向かう。
こんなに暗いのに作業どうするんだろう?
と山に行く道中ずっと疑問に思っていたが
その疑問は程なくして解決した。
発電機を使って、煌々とあかりをともしながら作業するのだ。

親方たちは先に到着していて、レタスの収穫をしていた。

レタス達はサイズごとに箱に詰められる。
私の仕事はこれらの箱をひたすらトラックに運ぶだけである。
他にも色々あるのだが、季節労働者の主な仕事はこれだろう。

信じられない量の箱をどんどん積んでいく。
簡単な作業だが、恐ろしく体力を消耗する。

朝日が登る頃、ひと段落して畑で朝食をとる。
親方のお母さん(以後お母さんとする)が作ってくれた おむすび と、カップ麺 だ。信じられないくらいうまい。その後も昼くらいまで作業をする。

昼になると下山する。
朝収穫したレタス達を市場へもっていく。
ここでも荷下ろしという力作業がある。
そして、積み方も独特で最初これを覚えるのに苦労した。
この積み方にすると、摩擦の力でちょっとやそっとじゃ崩れない。
それが終わると、ついでに給油する。

そして一旦家に戻り、昼食をとる。
またお母さんが飯を作ってくれる。
これがまた、信じられないくらいうまい。
白菜の浅漬けを毎度出してくれるが、生涯あの味を超える白菜の浅漬けには出会えないと思っている。

お昼を食べ終わると、大体 1 時間くらい休憩というか昼寝の時間がある。
うちの農家は昼寝が鉄板だった。

そして、昼の作業に取り掛かる。
昼に収穫することもあるが大体は、草取りもしくは、収穫が終わった畑の整備に入る。具体的には、レタスは、キャベツのように露天で栽培するには行かないので、「マルチ」という黒いビニールシートを畝の上に被せるのであるが、収穫が終わるとそれを片付けなくてはいけない。なので、マルチの撤去が結構主だった作業になったりする。

そして、この村特有なのだが、午後 3 時に BEATLS の Yesterday が流れてくる。それがおやつの時間の合図である。おやつバッグがあるので、そこから自分の好きなおやつと缶コーヒーが支給される。

村で過ごした時の中で 1 番好きな時間だった。

およそ夕方 5 時まで農作業をして、下山する。
下山した後は、速攻で風呂に入る。
そして、夕食を食べる。ここはちょっと特殊で、風呂も夕食もお世話になっている農家では取らない。近くの民宿みたいなところでお風呂に入り、食事を取る。ここで他の季節労働者と出会ったりする。飯は普通である。

食べ終えると、離れに戻り、怒涛の 1 日が終わったことの余韻に浸る間も無く、泥のように眠った。

午後 7 時くらいだったと記憶している。

無機質な空間

働いてみて 3, 4 日経過したくらいから違和感を感じ始めた。
いや、多分最初から感じていたのだが、働き始めて間もないので、そんな余裕はなかったのだろう。
でも少しずつ慣れて来ると、見えにくかったものが見えてくるようになる。

働いて間もないときのやりとりで、今でも忘れられないことがある。
出荷前にトラックに積んだレタスの箱を数える作業がある。
箱を勘定していると、そのときたまたま計算が合わなくて、再三勘定し直していた。親方が確認しにくると、私はちょっとおどけて
「すみません。ちょっと数が合わなくて。」
と言った。すると、親方は
「なんだ数も勘定できねぇのか? いいから早くしねぇか。」
と感情のない無機質な声で、機械的に告げた。

そのとき初めて、もやがかかった違和感の正体を理解した。
ここで私は、人間 として扱われていない。

モノ そのものである。
もっというと、機械の部品に近い。
何も期待されていない。
想定通りの挙動をしてくれればそれでいい。
人としてのやりとりは一切無用である。

機械を買ったとする。
それが期待した動きをしなかったらどう思うだろうか。
使えない機械だな。不良品じゃないか。
そう思うに違いないだろう。
私はこの村では、その程度の存在価値なのだ。

思えばこれまでの人生で、人格を否定されたり、存在を無視されたりすることを経験したことがなかった。

自分の声は必ず届くと思っていたし、受け入れてもらえるのは当然だと思っていた。しかし、ここで初めてその概念が消失した。

私は、替えのきく無価値な存在になった。

その晩は、極度に疲れているはずなのに眠りにつくことができなかった。
今までの何気ない数日間のやりとりを思い出し、存在価値を失った自分が脳内で無限に反響していたからだ。
これまでにない屈辱感とともに、現状何もできないことにひどく落胆した。

ああ。あの落書きの意味はこういうことだったのか。
なぜこの村を去る人が後を絶たないのかをようやく理解した。
理不尽な要求をされたことや、厳しい労働環境もあるだろう。
しかし、真実はそうじゃない。

ヒト は存在を認められて初めて、人 に成ることができる。

この村において、私は ではない。
単純な話だった。

自分のやりたかったこと

私は結構投げ出しやすい性質である。
嫌だと思ったり、「ああこれは、意味ないな。」と思ったらすぐに辞めてしまう。

しかし、今回は
自分が進んで選択した道で、かつ意味があると思っている
ことだった。

つまり、辞めるという選択肢は毛頭なかった。
無論、辞めたかったのは言うまでもない。
しかし、私の選択肢に 辞めるというコマンド がないのだ。
この選んだ道は、 100 % 自分のためになると盲信しているので、突き進むしかなかった。(本当にダメだったとき辞めよう。とは思っていたが)

だから、私も私に期待しない。
ただ、目の前のことを全力でやるだけ。
今までだってそうだった。
いやむしろ、今までそうだったから評価されたのかもしれない。

相変わらず、存在価値は 0 なので、腑が煮え繰り返ることは多々あったが、それでも、時間は着々と過ぎていき、仕事はだんだんできるようになっていった。

自然に触れ合ったり、体を動かすというのはとても重要なことで、めちゃくちゃイライラしても、汗をかいて無心に仕事をすればだんだん消えていった。

ただ自分の役割を全うしよう。
その一心だった。

よっちゃん

 1 ヶ月を経過したあたりだと思う。
親方から、そう呼ばれた。
それまで名前なんて呼ばれたことはなかった。
せいぜい バイト である。

言葉にしにくい気持ちだった。
大した働きはしていないが、徐々に歩み寄ってくれていることを感じずにはいられなかった。

このあたりから仕事に対するミスの指摘が極端に減っていった。

私は結構不器用なので、一定の頻度でミスをするのだが、あまり言われなくなっていった。

激甘である。

ある程度、仕事の裁量も委ねられるようになったのもこの辺の時期だったと思う。

あれだけ無機質に思われた 親方がそれ以降、こんなに冗談を言う人なんだと衝撃を受けた。

1 本の電話

2 ヶ月くらい経ったときだと思う。
仕事はだいたいできるようになった。
知らない番号から電話がかかってきた。
大学からである。
実は退学に必要な手続きが大学でしかできなかったので、大学まで来てくれとのことだった。

心底億劫だった。

しかし、これを行わないと後々さらにややこしいことになるので、行かざるを得ない。
その旨を親方に伝えた。
親方は、快く了承してくれた。
出発の朝、お母さんからお弁当と道中の路銀をもらった。
もちろん、路銀については丁重に断ったが、結構強引に持たされた。
ありがたく頂戴し、大切に使わせていただくことにした。

大学に到着し、さっさと手続きを終わらせようとした。
しかし、ここでうっかり発動。
「あ〜よしまつさん。必要な書類が一枚足りませんね。これまた明日持ってきてください。」
発狂しそうになった。
こんなことばっかりである。
仕方ない。
事実上、休みがもう 1 日必要になった。
親方に連絡するの嫌だなぁ。ちょっと怒られるかもしれない...。
なんて思いながら電話をすると

親方:「もしもし〜?」
ワイ:「よしまつです。今大丈夫でしょうか?
親方:「大丈夫だよ。 なんかあった?」
ワイ:「ちょっと、あのぉ、大変申し上げにくいんですが...」

その瞬間、凍てついた空気が場を支配した。
電話口の向こうから『無』が伝わってきたことは今でも忘れない。

ワイ:「手続きの不具合で、もう 1 日 お休みをいただけないでしょうか...?」

親方:「 あ〜全然いいよ〜。気をつけて帰ってきてね〜。」

通話終了。

私は
「ん? なんだったんださっきの空気...」
と思ったが、よく考えると 『辞めます...』 と言う可能性があったから、あの空間を捻じ曲げたような空気になったのかと納得したと同時に、少しおかしかった。

その後つつがなく手続きが終わり、無事長野へと出発した。
二回目に長野の家についたとき、親方一家は笑顔で迎えてくれた。

美しい山々

その後も仕事が続く。
いつしか私は、ムキムキになっていた。
大学院在学時とは見違えるほど、パワー Up していた。
3 食しっかり食べて肉体労働をする。
そして十分な睡眠をとる。

働き始めたときには感じることのできなかった自然に、私の五感が喜びを覚え始める。
絶景がそこら中に存在するのだ。

いつものように仕事が終わる。
風呂と食事を終えて、ビールを飲む。
近くを流れる清流のせせらぎを聞いていると、気づいたら寝ている。

その日はどういうわけか、途中で起きた。
用を足そうと思い、 離れ から外に出ると驚愕した。

夜空一面を埋め尽くす星の数である。

ありきたりな表現で申し訳ないが、もうそれしか表現のしようがない。
どれくらい見上げていたかわからない。
小便なんてすっかり忘れていた。

日本一高い集落で見た夜空は、私が知っている夜空ではなかった。

この村がくれた最高のご褒美だった。

冬の訪れ

季節労働者 と言うくらいなので、ある一定の期間しか働くことはできない。
この村の農家はおおよそ、 10 月いっぱいで仕事が終わる。
私のところも例外ではない。

終盤に差し掛かかると、だんだん作業が減っていく。
起床も 5 時や 6 時とかになっていった。
朝食も畑でとるのではなく、母屋でとるようになる。

ある朝、私とお母さんだけが居間で朝食をとっていると、こんなことを言われた。

「最後までウチに残ったのは、あんたを含めて 3 人だけよ。みんな辞めていってしまうのに、ありがとうねぇ。」

何も言えなかった。
胸がいっぱいだったからだ。

自分の存在がいつの間にか認められていたような気がする。
無価値な私が初めて価値を見出した瞬間かもしれない。
これまでの自分の働きは無駄じゃなかった。
そう思えただけで、私がこの村で過ごした意味はあったのだろう。

何の価値もない人間が、ただ無心で頑張っただけで得ることができたもの。

「人から信頼されるということ」

私は人生で初めて、何かの役に立ったのかもしれない。

出発の朝、親方から
「よっちゃん、来年も来るでしょ?
と冗談まじりに言われたとき、報われた気がした。

あれからもう 7 年あまりが経ったが、あの 3 時ぴったりに鳴り響く Yesterday は今でも私の青春である。

川上村での経験は私にとっての原点である。

今できる最高のパフォーマンスをしよう。
価値のないモノにでき得る最大の戦略である。
初めから、有能な人間なんて存在しない。
退路を失ったヒトにできることは、思いっきり前進することだけである。
その姿勢によって、少しずつ周囲の信頼を勝ち取っていくのだろう。

信濃川上駅に着いた。
あの 落書き はもう何とも思わない。

単線に揺られて次の目的地へ向かう。
車窓から見える急峻な峡谷特有の絶景が
私を見送ってくれている気がした。


こんなに長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
冒頭の写真は、川上村某所で午後 3 時に撮影したものです。





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