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また、見送る

 11月の終わり、叔母が亡くなった。


 わずか数年の間に、私の大好きだった父の弟が、私の大好きだった父が、私の大好きだった母の弟が亡くなっている。
 そして今また、私の大好きだった、母のもう一人の弟の奥さんが、亡くなった。
  
 大好きな人ばかり、どんどんいなくなる。いや亡くなる。
 いなくなると亡くなるは違うか。いやもう同じ意味だ。
 楽しいことも、悲しいことも、続く時は続くものだ。止められない。


 
 お通夜の前日から葬儀を終えて帰途につくまで、もう何度も見た光景、何度も覚えた感情と、また向き合った。抗うことはむずかしい。できない。葬る者は、死者の周りで起きるすべてのことをじっと受け入れるだけの数日である。

 けれど、そこに涙だけがある、というわけでもないのが人間世界の不思議なところだ。
 不謹慎なと思うかもしれないけれど、実際には、こんな時だから生まれてしまう、出くわしてしまう妙に滑稽な出来事というのは必ずある。そこに集う人々皆が悲しみに沈んでいる時だからこそ、そのコントラストも激しい。他の人にとっては何でもない出来事も、その場に居合わせた者にとってはかなりビビッドなインパクトがある
 なので、あの数日の、自分が出くわした小さな、いくつかの瞬間について、少しだけ書き残しておきたいと思う。(強い思いやオチなどあるわけでなく、ただ衝動だけでPCに向かっています。)

 もちろん、まだ深い喪失感に沈んでいる残された叔父を思うと切ないし、 あの時間を赤裸々に?書き残すという行為それ自体が不謹慎で申し訳ないことなのかも、とも思う。
 けれども叔父さん、許してほしい。
 カメラを向けることが適当ではない時間の中で、私にとっては「愛すべき」としか言いようのない瞬間がいくつもあった。それを忘れたくないから、大きな悲しみの記憶に上書きされないうちに、こうやって拙くとも文字にしておきたいのです。


 ◆

 
 遺体は、病院からそのまま葬祭場へ運ばれ安置されていた。お通夜まで1日空いているという。 
 それぞれ家庭を持ち、離れた街で暮らす従姉妹たちが帰ってくるのは夜になると聞いていたので、明るいうちに母と出向くことにした。慌ただしくなる時間の前にゆっくり対面したかったし、突然取り残された叔父さんのことも心配だったのだ。

「今から叔母さんに会いに行っていい?」
 家を出る前、携帯に電話すると、具合が良くなくて今病院にいる、と言う。
 え、叔母さんはもう。
 2日前はお通夜と葬儀の日程を何度も間違えていたおじさんだ。悲しすぎて混乱しておかしくなったんじゃないかと思ったら、腰の治療中で、たった今整骨院に来たばかりなんだと言った。主語がなかったからといって叔父さんの頭を一瞬疑ってしまった、私の方がおかしいのだった。

 腰の骨を圧迫骨折しており家の近所の整骨院に通っているという。なんでこんな一番大変な時にと思ったら、ベッドの下に倒れていた叔母さんを発見し、慌てて抱き起こそうとした時に痛めたことが原因なのだった。
 叔母さんは近年食欲も落ちていて、昔に比べればずいぶん痩せていたはずだけど、それでも起こすことは出来なかったらしい。


 
 人が本当に意識を失ってしまうと、その体はとても重くなる。
 それは私も、亡くなる直前数時間前の、死相を浮かべた父が、それでも自力でトイレに立つというのを支えた経験から、わかる。(今思ってもなんと頑固な人だったことか!)
 末期の胃癌で、トイレに行く度に下血して、立ちあがると極度の貧血状態になり膝から頽れる。それが最後の短い帰宅の間に4、5回あった。
 4回目まではなんとかベッドまで支えて戻すことができた。でも一番最後は、目を開けたまま倒れていく父をどうしても止められずに、一緒になってトイレの床に倒れ込んだまま、すでに呼んでいた救急車の到着を待った。
 あの時の父の重さには、人間らしさというものが、もうまるでなかった。
 丸太、もしくは石。物質そのもののような、情け容赦ない重さだった。3週間、いやそれ以上も、ほとんど水と氷しか口にしていなかったのにもかかわらず、だ。

 だから、その時の叔父さんがどんなに大変だったか、どんなに大きなショックに見舞われたかは手に取るようにわかる。
 突然の腰の痛みにもんどりうって倒れ込み、イテテと叫んでも、目の前の妻は起きてくれない。「私のせいでごめんなさいね、お父さん大丈夫?」と自分を心配してオロオロしたりしてくれない。愛する人は目の前にいるのに、床にうつぶせたまま自分と目も合うことがない。命は切れてはいないのに、しんと重たく、動かない。

 
 棺に入っている叔母さんは、びっくりするくらいきれいだった。
 82歳なんてとても思えない。
 もともと彫りの深い北欧系の顔立ちの女性だった。痩せた肌にはたるみがまったくといっていいほどなく、尖った顎や、高い鼻梁や、大きく長い瞼の美しいカーブを、まるで芸能人を初めて間近に見るチャンスを与えられた者のように、私はしげしげと、うっとりと、いつまでも眺めていた。長い間かわいがってもらってきたのに、不思議と涙が出て来ない。
 
 やがて背を丸めた叔父さんが、時おり顔をしかめながら不安定な足取りで階段を昇って来た。腰が痛むのだろう。しばらく会わなかった間に、また小さくなったような気がした。


 叔父さんはもともと小柄な人で、反対に叔母さんは立派な体格をしていた。いわゆる蚤の夫婦というやつだ。姉さん女房で、五歳年上だった。
 性格も対照的だった。叔母さんは大らかでおっとりタイプ。叔父さんは心配性で常にせかせかと動き回る。純朴で人が良いのだけはよく似ていて、ふたりが並ぶと時々姉弟のように見えた。

 食堂で働いていた叔母さんに、営業で出向いた叔父さんが惚れたのがきっかけらしい。ドラマの設定を地で行く恋愛結婚だったと母から聞いた。


「まだ死んだなんて思えんでな」

 叔父さんは棺に近づき、顔を寄せて、愛おしそうに叔母さんを見つめた。
「火葬したくない」と、呟いた。
「このまま置いておきたい」
 叔母さん成仏できないよ、と私は思わず言ってしまう。言った途端に、自分はなんて杓子定規で冷たい人間だろうと激しく後悔する。

「起きんかい。オイ」

 叔父さんは叔母さんのおでこにキスするんじゃないかと思うほど顔を近づけて眺めている。もう目を開けることのない妻に優しい声をかけて、泣いた。

 
 従姉妹があと2時間ほどで到着するというので、その前に家に寄ってご先祖にもお線香をあげて帰ろう、ということになった。
 この葬祭場から車で2分ほどの近さにある叔父さんの家は、母の生まれた実家でもある。
 昭和の初期までは紙の卸問屋をしていて、羽振りがよく、お手伝いさんも職人も住みこみで雇っているような豪邸だったらしいのだが、祖父が家業以外のこと(邪馬台国の研究だとか、重光葵の選挙応援演説だとか、諸々あったらしい)に熱をあげて、母が中学生の頃に店をたたんだ。
 一時は借金取りから身を隠すような日々もあったらしいけれど、家だけは当時の骨組のままなんとか残っている。私が高校生くらいまでは、花屋やスナックにも間口を貸し出していた。それを、あちこち手を入れて、叔父さん夫婦は暮らしていた。

 私も幼い頃からコロナ禍の前までもうそれはずっと、何百日過ごしたかわからないほどに馴染んだ家だ。ただ、心臓を患っていた叔母さんに感染リスクがあるようなことは避けようと、この2年はほとんど立ち寄りもしていなかった。

 玄関の鍵を開けた叔父さんに続いて、私たちも久しぶりに中へ入る。
 広いタタキの端っこに、パステルカラーの華奢な夏用サンダルが数足置かれていた。叔母さんのものだ。もう履かれることのないそれを、横目で見ながら上がりこむ。
 雑多なものが散らかった茶の間。いつも叔母さんが座っていた座椅子が変わらずある。姿見の前に置かれた化粧品のボトルもそのままだ。
 茶の間の先に、薄暗く窓のない、小さな畳の部屋が続く。少し黴くさいような、でも懐かしい匂いがする。ここで母の三人の弟たちが、祖父と並んで寝転び、小さな赤いテレビで高校野球の試合を見ていたことを思い出した。台所に行くのにじゃまで仕方がなくて、時々叔父さんたちの足を踏んだことも。
 男物か女物かわからない下着が、部屋の隅に適当にたたまれて山と詰んである。真っ黒に見える古いタンスが壁のようだ。
 胸が詰まるような、今は重苦しい郷愁に包まれる。
 仏壇のある部屋はこの先。
 閉めきっている襖を開けた。



「…ちょっ、なんで?」

 思わず叫んでしまった。

「叔父さん、な、なんで今よ!」

 茶の間から声が帰ってくる。

「10日くらい前に頼んどいてな、昨日出来た」

 
 不意打ちをくらって、一瞬混乱した。
 そのとまどいが思いもよらない笑いを私に引き起こす。
 叔母さんがなくなったばかりの、その家の仏壇の前。
 絶対に笑う日でも場所でもないはずだと、頭ではわかっているのに抗えない。これを、悲しすぎる運命のいたずらと言うんだろうか。


 目に飛び込んで来たのは、仏壇の下に立てかけた真新しく輝く黒い額縁。    
 思いきりピンボケのその遺影は、今では懐かしいタイプののスーツを着てニコニコ笑っている、びっくりするほど若い叔父さんだった。





 従姉妹たちの悲しみようは私が予想していた以上に大きく、激しいものだった。長女はグレーのマスク姿だったけれど、そのマスクが黒に見えるほど涙で濡れて変色していた。

「私ら、いい年こいてほんとに甘やかされてたの」
「なんでもぜーんぶ、お母さんが買ってくれてた」
 久しぶりに出会ったふたりは、思い出を喋るたびに並んで号泣した。

 意識はいつまであったの、と尋ねると、2日前まで、と答えた。次女が最後に、お母さん何かない、と枕元で声をかけると、目を開けて、
「S美ちゃん、何か買いたいものない?お母さんがお金、出してあげるから」
と言ったのだという。
 意識混濁の状態じゃなくて?と聞くと、そうじゃなくて、はっきりしてた、と首を振った。
 最後の最後まで母親として逝った叔母さんは、幸せだったと思うよ。
 そんなことくらいしか、ふたりに言えなかった。

 家族葬なので、ごく少ない人数で、畳の部屋でのお通夜だった。
 終わると、隣のホールに簡単な食事が用意されていた。
 各自が下駄箱から靴を出し履いている時、叔父さんがなんだかキョロキョロしている。わしの靴がない、という。こんな内輪だけで間違えるはずはなくて、一緒に探したら、すぐに見つかった。
 これは誰も絶対に間違えないよ、と思ったけれど、今度は私も黙っていた。
 おじさんはなぜか、空色のスニーカーを履いて来ていた。

 娘たちや叔母さんの兄弟はみんな葬祭場に泊まるのに、叔父さんだけが家に帰って寝ると言い張った。
 あれだけ火葬してほしくない、と言いながら叔母さんを見つめていたのに。前の日も娘たちだけを泊まらせておいて。明日はお骨になってしまう最後の夜なのに。
 皆がいくら言っても聞き入れず、叔父さんは暗い雨の夜道をひとり家へ帰って行った。背中を丸めて。夜に溶け込む喪服に、青空みたいにきれいな色のスニーカーを履いて。

 

 
 翌日には雨も小降りになって、葬儀はつつがなく執り行われた。
 簡素だけれど、温かくて良いお式だった。

 実は家族葬、というものに初めて参列した。
 父の時もこういうアットホームなものに、本当はしたかった。闘病期間もごく短かったので、ゆっくりと身内だけで別れを惜しむ時間がもっともっと欲しかったのが本音である。

 けれど家長であり、地域の役員とか俳句の同人とかお寺の総代とか、いろいろ背負っていたために(しかもビフォー・コロナである)、それはなかなか許されなかった。人との結びつきが異様なほどに濃い田舎ならではの特性もあって、200人それ以上くらいの方が参列してくださり、喪主になった私は一人で忙殺された。セレモニーとしての葬儀を型どおり無難に終わらせることにしか、気力体力を使えなかった。
 気がつくともう3年経ってしまったのだけれど、予想以上に父の不在がまだ自分の中で生々しい。あの当時、もっと感情丸出しで思いきり泣けていたら、ひょっとするとこんな長引き方はしていなかったのではないか、という気もするけれど、いや、やっぱり自分はそんな風には泣けなかっただろうなとも思う。喜怒哀楽を表に出すのが、本当にヘタな人間なのである。

 出棺前、最後の別れの時間に、子供のように棺に取りすがって泣きじゃくる従姉妹たちを見つめながら、そんなことをぼんやり考えていた。




 火葬の待ち時間というのは、不思議な穏やかさがある。


 コロナ禍を受けて、火葬場に同行する者は葬儀よりさらに少なく10名までとされていた。小高い山の中腹にある施設で約2時間、時を過ごした。
 
 従姉妹たちは疲れ果て、広間のソファや和室、それぞれ離れた場所で目を閉じて横になった。もう、母親に出来ることがなくなってしまった。すべてやりきってしまった。そんな淋しさや虚脱感、この数日の疲れがここで一気に出てきたようだった。わかる、わかるよと思いながら、頑張っている次女の背中をさすった。


 母のもう一人の弟の、A叔父さんと久しぶりにゆっくり話をした。最近、能面や木彫を習い始めたのだとか。実は、先に亡くなった彼の兄のH叔父さんも齧ったことがある。もっとも、途中で絵の方に転向したのだけれど。

 A叔父さんはそのことを、H叔父さんの生前は知らなかったと言うから、「さすがだね」と言ってひそやかにこっそりと、ウケた。
 前にも親戚中で集った時に、ふたりが同じ車の色違いに乗っていたということがあって驚かされたのだった。そんなことが、何度かあったっけ。
 ふたりは一卵性の双子だ。

 
 私が小学生の頃までは、A叔父さんとH叔父さんをしょっちゅう間違えていた。あの実家でよく鬼ごっこをして遊んでもらったものだけど、当時流行ったベルボトムのGパンにTシャツ、そして長髪。格好まで同じ二人が広い家の中で入れ替わり立ち替わり現れるから、私は必死で逃げ回りながら、もうどっちがどっちか全然わからなかった。
 顔つきの違いを容易に見分けられるようになったのは、叔父さんたちが大学を卒業して社会人になり、それぞれの人生を歩き始めた頃くらいからだろうか。子どもたちが成人した後の双子の叔父さんたちは、はっきりと「それぞれの顔」になっていた。
 私の父とH叔父さんの死は、3ヶ月と離れていない。H叔父さんの方が随分前から病に伏せていたのだが、父はあっという間に追い抜いてしまった。
 大酒飲みでいつも賑やかだったA叔父さんは、あの頃から少しおとなしくなった。

「また、薔薇見に行くね。その時仏像も能面も見せてよ」
「おお、来い来い。母ちゃんも一緒に連れて来いよ」



 

 新鮮な空気を吸いたくなり、一人建物の外へ出てみた。
 辺り一面に植栽された木々の、緑の匂いが濃い。昨日の夜からの雨がまだ少し続いていて、冬らしい薄いグレーの曇天だった。風は収まっていて、穏やかな静けさだ。 

 やがて「K家のご遺族の皆様、収骨のご準備が出来ました」、というアナウンスが流れた。係りの人に案内され、遺骨の到着を待つ。
 荼毘に付された叔母さんが、静かに皆の前に戻って来た。

 あれだけ泣いてばかりいた従姉妹ふたりだったけれど、お骨になった叔母さんを見て、もう泣くことはなかった。さっきまでの愛しい姿は消え、ついにあちら側に行ってしまったという現実を突きつけられて、否応なしに冷静になった、という感じだった。
 叔父さんが、最初のお骨をいきなり取り落してしまい、長女に「もう、お父さん何してんの、もう!」と怒気を含んだ声でなじられる一幕はあったものの、それ以外は粛々と進み、無事に収骨を終えた。

 ◆

 来た道を、またバスに乗りこみ葬祭場まで戻る。
 みんな無言だ。
 ひとつの区切りがついて、疲労の気配とほっとした空気が重なりあって車内に浮かんでいる。

 隣の母は朝からずっと変わらない表情のまま、黙って流れる景色を見ている。母は積極的に父との思い出話はしない。私が明るく水を向けても、「そうじゃなあ」と控えめに笑って相槌を打つくらいである。何を思っているのかな、と少し気になるけれど、聞くことはしない。

 
 留守番続きの愛猫にも思いを馳せる。

 大好きな父が死んだあと、半年ほどして全身を激しく舐めるようになり、一時は赤身がケロイドのようにあちこちペロリと剥き出しになった。さみしさ、あわただしさ、強いストレスから来たものだというのは容易に想像がついた。
 子猫時代からわりと飄々とした性格の子だったのに、服も包帯も食いちぎるようにして来る日も来る日も病的なグルーミングを繰り返した。父の遺影に駆け寄ってのぞき込む姿も、何度も目撃した。当時の写真は、ほぼすべて、ファンシーすぎるエリザベスカラーをつけている。
 今では高齢猫となり、症状は落ち着いたものの、格段に淋しがり屋になった。帰ったら、高級カリカリでもあげてご機嫌をとってやらなくちゃ、と思う。


 硬い座席でガタガタと揺られ続けている。
 窓の景色を見るともなく見やる。

 天気予報では夕方まで曇り時々雨だったのに、いつの間にか雲が切れて青空と太陽がのぞいていた。昨日叔父さんが履いた空色のスニーカーのおかげかもしれないと思ってみたりする。
 叔母さんの遺影の横に、出来立ての自分の遺影を並べて置いておくつもりだろうか。叔父さんならばやりかねないけれど、それは従姉妹たちが阻止することだろう。
 

 山からの長く続く坂道を下りきり、バスは海沿いの町に入ってゆく。
 
 了

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