丸川柘榴

ざくろです。少しずつやります。

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最近の記事

窒息

(一)  カーブで体が傾いて一瞬の眠りから目が覚めた。窓の外には、完全に照明の落とされた国立競技場が巨大な神殿のようにそびえていた。わずかな街灯と信号の光だけに照らされた外壁は、日中よりも圧を持って眼前に迫っていた。  そっと車内の様子をうかがったが、うたた寝していた僕のことを特に誰も気に留めていない。別にびくびくする必要もないと分かっているのだが、出発時に運転手が若い男に「お前、俺が運転してるんだから寝るんじゃねえぞ」と言っていたことを若干気にしていた。軽い調子だったし、

    • Too late to die

      (一) 一九四五年二月二十三日、私は神様に会った。 戦闘機を撃墜された私は落下傘で脱出し、木の枝に引っかかってぶら下がった。二発の銃弾を受けた右の太ももからは、絵の具のような真っ赤な血が流れて止まりそうになかった。「このまま死ぬのかな」と思った。 二十一年間の人生の記憶が順不同でよみがえってきた。完全に忘れ去っていたはずの幼少期の記憶も浮かび上がった。兄と遊んだ近所の公園。出征前日に父と食べたぜんざいの味。仲間と歌った「同期の桜」。お調子者の木村義明が得意とした隠し芸。青山

      • とうめい

        (一)  二〇二〇年一月一日、港町・神戸を象徴する鉄塔「ポートタワー」の足下で、一人のホームレスがあおむけに四肢を投げ出していた。  ポートタワーは赤い鉄骨パイプが鼓のように双曲面型に編み込まれた高さ一〇八メートルの塔だ。同心円型の展望台からは瀬戸内海を一望でき、元旦には初日の出を拝む家族連れやカップルが列を成す。その日も朝六時半からの特別営業を待ちわび、晴れ着姿の男女が暗いうちから四〇〇人ほど集まっていた。タワーの塔頂部には日の丸がかかっていた。気温は三・二度。刺すよう

        • 風鈴草

          ◇  渡辺結子が死んだらしいと知らされたのは、予備校の夏期講習の昼休みが終わる直前、午後の授業のテキストを机に出していた時だった。隣のY市でアパートの一室から十代の女性の遺体が見つかった、とネットのニュースで流れていた、らしい。スマートフォンを見ていた女子が、「近くで事件あったって。『県警は遺体の身元をワタナベユウコさん17歳と特定した』…って、これウチらと同年代やない? 知っとお人おる?」と声を上げた。  僕は思わず振り向いた。が、女子たちの目には入らなかったようだ。代

          失望症

          (一)  自分の声が出なくなっていたことに気付いたのは夕方のことだった。実際には朝から出なくなっていたのかもしれないが、言葉を発する機会が一度も無かったから気が付かなかった。コンビニで水道代を支払うついでに肉まんとプリンを買った際、女性店員に 「温かいものと冷たいものは袋をお分けしますか?」 と聞かれた。 「はい」 と声に出したはずの口から音が出なかった。言葉こそ出なかったが私が頷いていたため、私の困惑をよそに店員は滞りなく袋詰め作業を終え、私は掃き出されるようにス

          ペニシリウム・イタリカム

          (一)  小さなスピーカーが吐きだした耳障りな音で目が覚めた。「青い海、緑の島々……」。昭和末期の歌謡曲とおぼしき女性の歌声は、音質の悪さが古くささを際立たせていた。音量は無駄に大きい気がするが、私のように居眠りしている乗客の目を覚ます目的があると思えば必要十分な音量なのだろう。ひとしきり歌が流れきった後、船長が低く聞き取りづらい声で「まもなく越智ケ島に到着します」とアナウンスした。  船の窓の外には真っ青な海と空。その間に、饅頭を水に浮かべたような緑色の島々がいくつかぷ

          ペニシリウム・イタリカム

          【小林淑子の話】 (一)  母綾子は大正十五年に旧満州で生まれた。苦労話を積極的に自慢するタイプではなかったのでどのような青春時代を過ごしたのかは想像の範疇を超えないが、二十歳で終戦を迎えたわけだから筆舌に尽くしがたい我慢も嫌な思いも鮮明に覚えていただろう。十代でなめた苦労は横浜に引き揚げてからは芯の強さに昇華した。  今でも思い出すと楽しくなるエピソードがある。あれは私が五歳か六歳のころだったと思う。家の近くの公園で遊んでいた私は、高い鉄棒の上で服を引っかけて宙づりに