『日本霊異記』上 聖徳皇太子の異しき表を示したまひし縁 第四

諸注意

・平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の現代語訳と、そのメモ書き。
・テキストは、手元にあった日本古典文学全集本(小学館、1975年)を使用(より新しい新日本古典文学大系本を参照する方が望ましいと思われる)。中田祝夫氏による現代語訳が付いているが、従わない部分もある。
・あくまでメモ書き。乱暴な訳なので、コピペしての二次使用は禁ずるし、奨励しない。

あらすじ

聖徳太子は行き倒れている乞食に出会い、施しに自分の衣服を与えてやる。後にその乞食が死んだ際、太子はその衣を取り戻して再び着用したので、臣下は「あんな汚いものを」と訝しんだ。しかし太子には、その乞食の本当の姿が見えていたのである。果たしてその正体とは。

本文

聖徳皇太子の異しき表を示したまひし縁 第四

聖徳太子は、磐余(いわれ)の池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)で天下を治めた橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと。用明天皇のこと)の子である。小墾田宮(おはりだのみや)で天下を治めた天皇(推古天皇)の時代に皇太子となった。

太子には名前が3つあった。1つ目は「厩戸豊聡耳(うまやどのとよさとみみ)」、2つ目は「聖徳」、3つ目は「上つ宮」といった。

「厩戸」と言われたのは、馬小屋の扉のそばで生まれたからである。生まれつき聡明で、十人が同時に訴えていることを、一言も漏らさずに聞き分けたという。ゆえに「豊聡耳」と言われたのである。

太子の立ち振舞は僧侶のようであった。それだけでなく、勝鬘経(しょうまんきょう)・法華経(ほけきょう)などの注釈を作り、仏法を広めて人々に利益をもたらし、官位や勲位の制度を定めた。ゆえに「聖徳」と言われたのである。

「上つ宮」と言われたのは、天皇の宮(この場合、小墾田宮ヵ)より上(北?)に住んでいたからである。

太子が鵤(いかるが)の岡本宮(おかもとのみや)に住んでいた時、何かのついでに宮殿を出て、行幸へ出かけた。片岡村というところに差し掛かると、道のそばに、毛むくじゃらの乞食が病気で倒れていた。太子はこれを見て、輿から降りて乞食と語らい、来ていた衣を脱いで乞食に着せかけ、なおも行幸を続けた。

行幸を終えて引き返すうち、例の乞食がいたところに差し掛かると、衣が木の枝に掛かっていいるだけで、乞食はいなくなっていた。太子はその衣を取ると、再び身に着けた。

これを見た太子の従者が「卑しい人に触れて穢れた衣服なのに、どうしてその衣を着るのですか」と尋ねた。太子は「それ以上言うのはやめておきなさい。あなたたちには分からないことでしょう」と答えた。

後に例の乞食は、別の場所で死んでいた。太子はこれを聞くと、使者を遣わして遺体を弔い、岡本村の法林寺の東北になる守部山という所に墓を作って葬り、これを入木(いりき)の墓と名付けた。この後、派遣された使者が墓の様子を見たところ、墓の入口は開いていないのに遺体は無く、ただ和歌を
書いた木札が入口に立てかけてあるだけであった。その歌は、

 鵤の 富の小川の 絶えばこそ
 わが大君の 御名忘られめ

――鵤にある「富の小川」の流れが絶える時があるのなら、その時こそ太子様のお名前を忘れる時でしょう(川の流れが絶えることはないので、絶対に忘れません)――というものであった。

使者がこの様子を太子に報告すると、太子は何も言わなかった。つまり、聖人は聖人を知るが、凡人はそれに気づかないということである。凡人の目には卑しい乞食に見えても、聖人である太子の慧眼には、その乞食が正体を隠した聖人であることが見えていたのである。これは本当に不思議な話である。

またある時、籍法師の弟子の円勢法師という、百済国から来た高僧がいた。日本に来てからは、大和国の葛木にある高宮寺に住んでいた。

その頃、一人の僧侶が高宮寺の北にある僧坊に住んでいて、名前を願覚といった。願覚法師は毎朝早くに寺を出て里へ行き、夕方には僧坊に帰ってきていた。これを常の事としていた。ある時、円勢法師の弟子の優婆塞(在家の信者)がこれを見て、円勢にこれを告げ口した。しかし円勢は「何も言うな。お前は黙っておれ」と、逆に優婆塞を注意した。

納得のいかない優婆塞は、密かに僧坊の壁に穴を開け、こっそり願覚の様子を覗き見ると、その部屋の中は光に満ち満ちて輝いていた。驚いた優婆塞がこれを円勢に報告すると、円勢は怒って「だから何も言うなと注意したのに!お前は!」と優婆塞を諌めた。すると、間もなく願覚は急逝してしまう。円勢は優婆塞に「この方を火葬にしておやりなさい」と指示し、優婆塞は言う通りに葬った。

後にこの優婆塞は、近江国に移り住んでいた。すると近江国のとある所で、ある住人が「ここに願覚法師がおられる」と言った。優婆塞が行って見てみると、その人は本当に、火葬にしたはずの願覚法師であった。願覚は「最近お見かけしないので、いつも恋しく思っておりました。そのため、この頃は落ち着かない気持ちでした」と再会を喜んだ。

この願覚こそ、托鉢乞食の善行を積んだ、あの聖人の生まれ変わりなのである。五辛の野菜(ニンニク・ネギなど臭いと辛味のある野菜)を食べることは仏教の禁忌であるが、聖人であれば罪を得ることは無いのである。

聖徳皇太子の異しき表を示したまひし縁 第四 終


雑記

・伏線が何も無いので、初見で乞食=願覚と見抜けた人は少数であろう。それこそ聖徳太子ぐらいの慧眼が無ければ難しい。

・皇太子制は飛鳥浄御原令段階で規定されたと考えられており、聖徳太子が皇太子になったとは考え難い(荒木敏夫説)。皇太子に近い立場にはあったかもしれない。『日本書紀』では皇太子になったことにされているので(推古天皇元年四月己卯条)、霊異記はこれに拠ったのだろう。

・聖徳太子と乞食の説話は『書紀』にもある(推古天皇二十一年十二月庚午朔条)が、詠まれている歌が異なる。『書紀』verでは和歌ではなく歌謡が詠まれており、

 しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ 
 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 
 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ

――片岡山で、飢えて、倒れている、その旅人は可愛そうだ。親はいないのか。優しい恋人はいないのか。飢えて、倒れている、その旅人は可愛そうだ――というもの。「しなてる」は「片岡山」にかかわる枕詞であるらしい(日本古典文学大系本注)。

・聖徳太子信仰は、彼の死後早い段階から始まったようで、既に『日本書紀』にはその影響が見て取れる。実際に「厩戸」「豊聡耳」の由来は『書紀』にも同様の記述がある(推古天皇元年四月己卯条)。

・飛鳥岡本宮は、いわゆる飛鳥京跡に位置する。この場所には、飛鳥岡本宮→飛鳥板蓋宮→後飛鳥岡本宮→飛鳥浄御原宮と複数回に亘って宮が置かれたため、重層的な遺跡になっている。現在でも石壇が残る。
飛鳥地域は田んぼが多いために開発の手が入っていない場所が多く、遺跡の残りが良いらしい。

・高宮寺は現在残っていない。奈良県御所市の山中に廃寺跡を残すのみである。

・五辛の野菜とは、僧尼令7飲酒条に規定されている、僧侶が口にしてはいけない野菜のこと。『令義解』には「一曰大蒜。二曰慈葱。三曰角葱。四曰蘭葱。五曰興菃」とあり、大蒜(おおびる。ニンニクを指す)・慈葱(ねぎ)・角葱(あさつき。ネギに似た植物)・蘭葱(こひる。ギョウジャニンニクを指す)・興菃(くれのおも。ウイキョウを指す)の五種類とする。『令集解』諸説も概ね同様である。
今風に言えば「スタミナの付く」野菜である。なぜ禁止されているのかは未詳だが、全集本の注では「これを食べると発淫、増恚の罪を得る」からだと説明している。恚(ふしくる)とは怒る、憤ること。
説話の最後になって急に話題に挙がる理由はよく分からない。五辛を食らうよりも、不邪淫や不飲酒の方が庶民に身近な仏教禁忌だと思うのだが。

・生き返る系の話を尸解(しかい)譚と言う。輪廻転生からの解脱を目指す仏教的にはどうなのかと思うが、『梁高僧伝』などの仏典にも多くあるらしい(全集本注)。やはり生への欲求は捨てがたいものなのだろう。

以上



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