『日本霊異記』上 嬰児の鷲に捕らわれて他国にして父に逢うことを得し縁 第九

諸注意

・平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の現代語訳と、そのメモ書き。
・テキストは、手元にあった日本古典文学全集本(小学館、1975年)を使用(より新しい新日本古典文学大系本を参照する方が望ましいと思われる)。中田祝夫氏による現代語訳が付いているが、従わない部分もある。
・あくまでメモ書き。乱暴な訳なので、コピペしての二次使用は禁ずるし、奨励しない。

あらすじ

ある日突然、鷲が女の子の赤ちゃんを攫ってしまう。嘆き悲しんだ両親は、せめてもの供養と思い、一心不乱に仏様を拝んだ。8年の歳月が過ぎたころ、父親は遠方の国へ出向くことになり、現地の人の家に泊まることになった。するとその家で働く女の子には、不思議な身の上話があるという……

本文

嬰児の鷲に捕らわれて他国にして父に逢うことを得し縁 第九

飛鳥の川原にある板葺宮(いたぶきのみや)で天下を治めた天皇(皇極天皇)の時代の2年3月ごろ、但馬国(たじまのくに)七美郡(しつみぐん)の山里の或る人の家に、女の子の赤ちゃんがいた。

赤ちゃんが中庭をハイハイしていると、鷲がそれを攫って遥か東の方向へ飛んで行ってしまった。父母は嘆き悲しみ鷲を追いかけてみたが、鷲の行く先は分からなくなってしまった。その後、父母はひたすらその子のために追善供養の法事を営み、冥福を祈った。

8年後、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)で天下を治めた天皇(孝徳天皇)の時代、白雉元年(650)の8月下旬のころ、父親は野暮用があって丹波国の加作郡(かさぐん)へ向かい、現地の人の家へ泊めてもらうことになった。

その家の召使いの女の子が、水を汲みに井戸へ行った。父親もまた、脚を洗おうと思い、女の子について行った。すると、他の家の娘たちも井戸に集まり、水を汲もうとしており、女の子の持つ釣瓶(つるべ)を奪い取ろうとした。女の子は必死で反抗した。

すると村の娘たちは一緒になって女の子をいじめて「お前はなぁ、鷲の食い残しの分際でよぉ、礼儀ってモンがなってねぇんだよ!オラ!」と罵り、馬乗りになって殴りつけた。殴られた女の子は、泣きながら家に帰ってしまった。

家に帰ると、泊まった家の主人が、泣いている女の子に「おい、どうしてそんなに泣いとるんじゃ」と尋ねていたので、父親は自分の見た経緯を話してやった。そして、なぜ村の娘たちはこぞってこの娘をいじめ、鷲の食残しなどと罵ったのか、その理由を尋ねた。

主人は「或る年の某月某日、私は鳩を捕まえようと思い、木に登っておりました。すると、鷲が赤ん坊を持って飛んできて、木の上にあった巣へ帰ると、赤ん坊を雛のエサにしようとしました。しかし赤ん坊が怖がって泣きじゃくったので、雛たちも驚いて食べようとしませんでした。私はその赤ん坊を巣から助け出しまして、それがこの娘なのです」と答えた。

我が愛娘の攫われた年月日と、主人の言う年月日は同じであったので、父親は、この娘こそが、鷲に攫われたあの赤ん坊であると確信した。そこで父親は、涙を流しながら、我が子が鷲に攫われた時の状況を主人に説明した。主人はその話を事実だと思ったので、女の子を父親へ返すことを決めた。

この父親は、偶然にも攫われた我が子のいる家に泊まることになり、遂にその子を探し出すことができた。これは、天の哀れみによって助けられたのであり、親子の縁は本当に深いものであるということが分かる。これは本当に不思議な話である。

嬰児の鷲に捕らわれて他国にして父に逢うことを得し縁 第九 終


雑感

・いや、殴られてる女の子を助けてやれよ なにボケっと見てんだよ

・板葺宮は、いわゆる飛鳥宮跡にあたる。この場所には飛鳥岡本宮→飛鳥板蓋宮→後飛鳥岡本宮→飛鳥浄御原宮と複数回に亘って宮が置かれた。前稿の雑感を参照のこと。

・難波長柄豊碕宮は、現在の難波宮跡にあたる。

孝徳天皇の時代に造営されたのが前期難波宮、奈良時代の聖武天皇の時代に再度造営されたのが後期難波宮。これもまた重層的な遺跡である。隣接する大阪歴史博物館にて遺構展示されている。同施設の10Fには大極殿の復元もある。かなり迫力のある復元展示なので、興味のある人は尋ねてみてほしい(ダイマ)。
https://maps.app.goo.gl/jzAwfSFq8nbVdhTLA

・日本最初の年号が「大化」、その次の年号が「白雉」である。だが白雉5年に孝徳天皇が死去すると、その後年号はしばらく使われなくなった。天武天皇の時代に一瞬だけ「朱鳥」という年号が使われていたが、それ以外の時期で年号は使われていない。年号が恒常的に使用されるのは、701年の「大宝」元年以降の話である。

・但馬国七美郡は、現在の兵庫県北部、温泉で有名な城崎の西方あたりにあたる。丹後は隣国だが、当時の主な移動手段は徒歩であるから、かなりの移動距離である。

・「丹波国加作郡」となっている。加作郡は現在の京都府舞鶴市付近、由良川流域のあたりである。丹後国じゃないのか?と思われるかもしれないが、丹後国が置かれるのは和銅6年(713)のことである(『続日本紀』和銅6年4月乙未(3日)条に、「丹波国の加佐・與佐・丹波・竹野・熊野の五郡を割きて、始めて丹後国を置く」とある)。この説話はそれ以前の時代の話なので、「丹波国」表記になっている。

・鷲と鷹は同じタカ目タカ科で、その区別は曖昧である。いちおう、大型のものを鷲、小型のものを鷲、としているらしいが、明確な基準は無い。

・『日本国語大辞典』を紐解いてみると、鷲の語源は
①悪い鳥であるとし、アシ(悪)の義〔日本釈名〕。
②車輪の如く飛ぶことを、ワシ(輪如)といったか〔東雅〕。
③自分の羽の素晴らしさを知っているところから、ワサシリの反。ワサは姿の意。シリは知るの意〔名語記〕。
④動作が敏捷であるところから、ハシ(捷)の義〔日本語源=賀茂百樹〕。⑤動物は皆強いものに殺されるが、鷲は敵無しであるところから、ワシ(我死)か〔和句解〕。
⑥ヲソロシ(恐)の略転〔紫門和語類集〕。
などが挙げられており、強くてヒールっぽいイメージがつきまとうようである。
一方、鷹の方はどうかというと、
①タカ(高)く飛ぶところから〔万葉代匠記・日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解・冠辞考・円珠庵雑記・箋注和名抄・名言通・和訓栞・紫門和語類集・大言海〕。
②タケキ(猛)意から〔東雅・類聚名物考・和訓栞・大言海〕。
③タカヒドリ(手飼鳥)の意か〔大言海〕。タカ(手飼)の義〔言元梯〕。④ツマカタ(爪堅)の反〔名語記〕。
⑤ツメイカ(爪厳)の義〔日本語原学=林甕臣〕。
⑥凡鳥でないところからケタカシの義か〔和句解・本朝辞源=宇田甘冥〕。
などが挙げられており、鷲よりも悪役らしいイメージは無い様子。鷹の語源は①が支配的なようだが、個人的には③タカヒドリ(手飼鳥)説が興味深い。鷹狩が念頭にあるのだろうか。確かに「鷲狩」は聞かない(実際には鷲も使うらしいが)。

鷹狩というと戦国武将のイメージだが、古代の天皇も鷹狩が大好きである。特に有名なのは嵯峨天皇だろうか。彼の熱中ぶりは、『新修鷹経』という書物を書いてしまうほどである。

・娘の攫われた年月日と、主人が娘を救出した年月日が一致するシーン。これは暦が普及していなければ不可能なシーンである。孝徳天皇の時代、7世紀中葉に暦がここまで普及していた可能性は……。

以上


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