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小説 涅槃湯 02

燃え上がる河


 娘たちがレンガ造りの礼拝堂に向かって花束を捧げていた。肩越しに長く垂らしたサリーが翻り、華やかに刺繍飾りが煌めいた。風に乗って女たちの詠唱が聴こえる。気がつくとダンは空中から彼女たちを見下ろしていた。

「この村の娘たちだよ」

すぐそばでアナンの声がした。彼もまたダン同様に空中に浮かんでいた。

「きみは村の霊園の上にいるのだ」

しかし眼下では、もうひとりのアナンが脚を組んで禅定に入っている。木陰で寝そべっている男は、Tシャツとジーンズの、どうみても自分なのだった。

「どうなってるの?」ダンの躰は軽く、まるで海で泳いでいるような感覚だ。

「身体から抜け出して、意識から作られた躰、意生身(マノーマヤカーヤ)といわれる存在となっている。これから、あの世への巡礼に行くためさ」

「どんな躰だって?」

「阿含経で化生とされる生物の身体で、神々、亡霊、地獄の亡者たちはみんな意生身なのだ」

 アナンがいうと、不意に青い草原が反転し、頭から大地に急降下し始めた。だが、ふたりは地面に激突することもなく、空を切るようにすっぽりと地面の底へと墜落していった。地の闇をしばらく落下すると、薄明かりが前方に見えてきた。そこは濃霧に覆われた川縁だった。

「ここはヴェータラニー河だ」

「聞いたことない河だね」

「あの世とこの世の中間に流れる川さ。日本では三途の川といわれる」

パーリ仏典は説く。


亡者は渡り難いヴェータラニー河に至る。その川は鋭い剃刀の刃を持っている。そこに諸々の悪を為した愚かな罪人が墜ちる。

(スッタニパータ)


施しをする者は死後、ヤマ(閻魔)の国のヴェータラニー河を超え天界へ至る。         

(サンユッタ・ニカーヤ)


インド神話『マハーバーラタ』でもヴェータラニー河とよばれ、悪臭に満ちていると伝えられる。古代メソポタミアではフブルと呼ばれる冥府の境界を流れる河がある。ギリシャ神話ではアケローン(嘆き)、ステュクス(憎悪)と呼ばれる河がある。死者は渡し守に一枚銀貨を渡してこの河を渡るという。

「三途の河は有名だが、この河はかなり地味だね」

「つまらない河かどうかは、かれに訊いてみるといいよ」

アーナンダの指さす方向には、玉虫色のダブルを着た小肥りの中年男が佇んでいた。身を乗り出すようにして、一筋の小川を睨み付けている。首筋に裂傷があり、黒い血痕が胸元を染め、紫色の顔面は憤激のためか醜く歪んでいた。

「我々の眼にはこの河はなんの変哲もない。しかしあの男の見ている河は別物だ。男に近寄ってみるとわかる」

そういうと、アーナンダはダンをひっぱった。

ダンは促されて男の背後に回った。せせらぎは夢のように消えていた。男の肩越しに見える風景は、それとはかけ離れたものだった。足下にせまる河の幅は広く、向こう岸は霞んで見えない。濁流はどす黒い煙を吐く紅蓮の炎に覆われていた。強烈な腐臭が鼻を衝いた。男はわなわなと震えながら、紅く燃える河の一点を凝視している。

「なにを血眼になっているんだ?」

「不倶戴天の仇でも探しているようだ」とアナンがいった時だった。

男はいきなり炎上する紅蓮の大河に飛び込んだ。男が河に消えると燃え盛る炎が揺らめきながらだんだんと弱くなりはじめた。

「さあ、急いでぼくたちも飛び込もう!」

「え?」


地獄の地下巨大施設


 地獄への巡礼に先だって、仏教の世界モデルを概観したい。  

 世界モデルの情報を提供してくれるのは倶舎論(くしゃろん)だ。倶舎論とは阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)の略称で、梵語でアビダルマコーシャ、意訳すれば「存在に関する論の入れ物」となる。初期仏教の教義を体系化した膨大な論書を、五世紀のヴァスバンドゥという僧が要約したものだ。

 まず果てしのない虚空にぽっかりと円形のガスの層が浮かんでいた。これを中国で風輪と訳した。このガスは金剛(ダイヤモンド)をも砕くといわれる。漢語で『輪』というのは、梵語でマンダラと呼び、回転という意味もある。円くて回転するものだ。よくバームクーヘン状の図解がなされる。ところが風輪は厚み百六十万由旬、(一由旬、約七キロとして千百二十万キロ)、周囲十の五十九乗由旬といわれるような途方もなく薄平べったい広がりをもつ。それは注釈書などによれば、風輪の支える世界はひとつではなく、十億の須弥山世界の基盤となるからだ。

 この風輪の上に、ある時豪雨が起きて直径百二十万由旬(八百四十万キロ)、厚み百十二万由旬(七百八十四万キロ)の水輪が形成された。このとき水が流れ出さないのは、穀粒を容れた円い竹籠のように窪んだ風輪が水を保つと説明されている。ちょうど重力の歪みモデルのようだ。やがてその水輪の表面が風の影響によって凝固し、厚み三十二万由旬(二百二十四万キロ)の金輪と呼ばれる地殻が形成されていった。

 こんな発想は、古代インド人の空想にすぎないと思ってはいけない。風輪は重力場と考えることができるし、その重力場にあつまって回転する水輪は、星を生み出す高温水蒸気ガスの回転円盤と解釈すれば、最新の天文学と合致する。

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この円筒形の惑星の中央には海面から八万由旬(五十六万キロ)を一辺とする、金、銀、瑠璃、水晶の四面からなる直方体の須弥山が聳える。海底部分も同様に八万由旬の深さがある。その周りを七つの海(淡水)と七つの山脈(黄金製の壁)が交互に正四角形に廻る。七つめの山脈の外には、もっとも大きな大海(海水)がある。さらにその周りを、鉄囲山(てちいせん)という山脈が盥の縁のように丸く廻る。太陽と月は須弥山を軸にして公転している。 

大海には須弥山から東西南北の方角に四つの陸地がある。東方に半月形、西方に円形、北方に正方形の陸地がある。それぞれに種の異なる人々が暮し、北方は寿命千歳、西方は五百歳、東方は二百五十歳、南方は現在百歳だ。南方には逆三角形に近い台形の大陸があり、甘い果実をつけるジャンブーという木が茂るのでジャンブー洲と呼ばれる。この大陸にはヒマラヤと呼ばれる山、ガンジス、インダスと呼ばれる川が流れ、ブッダが悟ったとされる場所があるから、インド亜大陸を中心にした我々人間の暮らす世界を示している。この大陸の下に冥府と地獄があり、須弥山の上方には天の世界が虚空へと広がっている。

これも古代人の考えたフラットアースだと誤解するなかれ、仏教の考える器としての大宇宙は、あくまで高僧が禅定で観察した六道世界とよばれる実存的多元宇宙なのだ。そもそも数学的にデータを集めて、世界の成り立ちを普遍化しようとする意図はない。

仏教の宇宙観によれば、このような須弥山世界が千個集まって小千世界となり、小千世界がさらに千個集まって中千世界となる。さらに中千世界が千個集まったものを三千大千世界といい、総計十億の須弥山世界が平べったい風輪の上に隈なく並んでいる。そして三千大千世界は十方にも広がっている。

この大陸の地下に八層からなる灼熱地獄が存在する。また、傍らには同じ八層の構造を有する極寒地獄がある。地底四万由旬(二十八万キロ)。まさに地獄のスーパーツインタワーである。長阿含経や増一阿含経では大海の果てにある二つの山脈の間にあるとされるが、いずれにしろ途方もない距離や世界の果てといった概念は、そこが人間の認識範疇を超えた異界であることを示している。


では、この地獄の巨大施設は誰が造ったのか? 神でも天才建築家でもない。須弥山に暮らすあらゆる生命の身勝手な行為が積み重なって建造されるという。そしてこの建設に参加したものたちが死後に地獄の利用客となる。ただ地獄がどのように感じられるかは生前に積み重ねられた行為によって異なるとされる。だから地獄も様々だ。大別して八層からなる熱、寒の二つの大地獄と、いちいちの大地獄に付随する十六の小地獄がある。そして孤独地獄といって、個人ないしは少人数で行った行為の報いとして感受する地獄が無数にある。場所は定まらず、河川、山裾、荒野、地下や空にも孤地獄はあるといわれる。


ダンたちは地獄の玄関口である餓鬼界に入った。地底三千五百キロを過ぎた空間に、三千五百立方キロの亡者の国があり、そこに閻魔大王の大法廷がある。二人は燃え上がる灼熱の激流に飛び込むと、火焔の逆巻くトンネルをひたすら落下していった。炎の中で思わず身をすくめるとアナンの声がした。

「ここでは防火服もパラシュートもいらない」

ダンはたっぷり冷や汗をかいたが、この世界がじつは自分の脳の中で再構成された仮想世界にすぎないことを思い出した。   

高速で落下しながら余裕のでたダンが聞く。

「このアトラクションに閻魔さまは出てくるの?」

アーナンダは真顔で答えた。 

「閻魔大王ね。インド最古の神話リグ・ヴェーダではヤマとよび、人類の祖であり、最初に死を体験した人とされる。いつのまにか死の国の王となり、罪人をさばく怖い大王とされるようになった。ほら、あそこにいるよ」

ダンが目を向けると、闇の中に幾つもの炎が赤々と上がる場所があった。ダンたちはそこへ滑空しているのだ。彼らの眼前に冥府立最高裁判所が迫ってきた。正門の前は威圧感のある赤い砂岩の列柱、厳めしい青銅製の大扉が篝火の灯りに照らされている。大扉の上には梵語で四つの言葉が刻まれていた。その意味は、


birth 生、aging 老、sickness 病、death死


扉の前に数人の警備員が立っていた。制服の袖から乾燥して破れた皮膚と骨がみえた。落ち窪んだ眼窩に目玉はなく、虚ろな暗がりだけがあった。いきなりダンは、ふたりの警備員に左右の腕を掴まれた。

「なんだ?」

「いつものボディチェックさ」

 アナンが苦笑した。

ダンたちはどうにか傍聴席に座った。灯火で照らされた薄暗い大法廷正面には、一段と高い位置に弓なりにそった法壇があり、中央に閻魔大王、両脇に判事たちが座っている。よく見ると法服の下の裁判官たちは普通の人間のような顔つきである。それだけではない、閻魔大王は以前テレビで見たことのある法務大臣にそっくりだった。ダンは失笑を禁じえなかった。

「ちょっと迫力がありすぎるよ」

「それをいうなら被告人にいってくれたまえ。なにしろ地獄の環境は彼の意識が投影されているのだ」

「じゃあ閻魔というのは彼自身だ」

「いや閻魔は存在している。ただしそれをどのように見るかは個々の意識の内容が反映するのだ」

冥府の裁判官は民族意識によっても異なって映るようだ。エジプトでは豊饒の神オシリスであり、ギリシャでは古代エーゲ海を支配したミーノース王である。

のけぞって見上げるような大法壇の前で、被告の男はカピバラのように頼りない。玉虫色のダブルを着た中年男で、唇を歪めて立ち、尋問を受けていた。両脇に青く干からびた獄吏が付き、男は手錠と腰縄で拘束されている。

「あなたのいう海底資源とはどこにあったのですか?」

「ですから、あれはまだ探査中だったのです。というのは真っ赤な嘘ですが……。いや、本当です。探査中だった。うそ、うそ、うっそで~す」

 玉虫色の男は支離滅裂な返事をしている。

「ふむ。全部ウソ」判事たちが男の証言を台帳に記録していく。

 閻魔大王が尋問を続けた。

「あなたはレアメタルの大鉱床が北極海で発見されたといいましたよね。今のうちに投資しておけば何倍にもなって返ってくると。しかしそれは、大昔に探査が打ち切りになった案件だったのではないですか?」

「たしかに一度探査は打ち切りになりましたが、じつはその探査の権利を買い取るところだったのです。てーゆーのも口から出まかせ」

「ふむ。口から出まかせ」判事たちのペンがスラスラと動く。 

ひとりの判事が差出した新聞チラシを閻魔大王は一瞥した。

「大鉱床の発見とでかでかとうたってますな」

 するとダブルの男は手もみしながら腰をもじもじさせて、

「お言葉ですが、その脇に『ロシア資源四季報』とあるのが見えませんか? その記事がそもそもガセネタだったのです。わたしの責任じゃない。わたしも被害者ですよ! って、うまい言い逃れをかんがえついたなあ。しかしなんで余計なこと喋っちゃうの?」

 玉虫色の男は目をおたおたと泳がせた。

「あのね、シラを切っても意味ないよ。なにしろ肉体は灰になり、嘘をつくための舌もない。この大法廷では、みんな考えたことがストレートに口を衝いて出る」閻魔大王は畳みかけた。

「その他にもまだやっているね。養殖マグロの共同出資、ダイヤモンド鉱山の投資話、ハワイ不動産の件、アフリカの企業買収……。」

「とんでもない! と言いたいところですが、はいそうです。みんなわたしがやりました」

 玉虫色の男はついに諸手で口を塞いだ。

アナンがいった。

「閻魔大王のまえで隠しおおせる悪業はない」

「冤罪もない?」

「ここじゃ、脳MRIで撮影されるよりも考えたことが丸出しになるのだ。証拠も事実認定の必要もない。だから冤罪もない」

「ならば正直に言いましょう!」

玉虫色の男が顎をしゃくりあげて叫んだ。「どんな夢物語でも、儲けがからむと喜んで見たがる手合いがいるもんです。そんな連中に儲け話の夢を売るのはちっとも悪いことだと思いませんがね」

今度はみごとに首尾一貫していた。

裁判官たちは眉を吊り上げてお互いの顔を見合わせ、閻魔大王は呆れたようにかぶりを振った。

「わかった、わかった。あなたはそれで仲間に裏切られてここにやってきたのだ」

「そうです! よく思い出させてくれました。わたしはそいつを追いかけてやって来たのですよ。奴の居場所をご存じなんですね」

 男は目を剥き、ぷるぷると弛んだ頬を震わせた。

「もちろん。かれもいまごろ特別仕様のスイートルームであなたをお待ちかねですよ」

「はやく、はやく連れて行ってください。奴の処へ!」

 閻魔大王は愉快そうに笑みを浮かべ、静かに閉廷を告げた。


 

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