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誰に向けて書いているのか

今日、たまたま読んだnoteに「誰に向けて文章を書いているのか明確にした方がいい。」というようなことが書いてあった。

自分の場合はどうかと考えてみたが、考えるまでもなく答えは簡単で「近い未来の自分に向けて書いている」ことが多い。

あるいは、「今現在の自分のために書いている」

それは書きながら、その時の自分の状態を少し高いところから俯瞰して、ぐちゃぐちゃとまとまらない考えをまとめたり、書いているうちに「あぁ、そういうことだったのか。」とモヤモヤしてはっきり認識できなかったことを把握することに繋がったりすることが多いからだ。

そして、そういった今ココの考えや想いが、また近い将来(それは1週間後かもしれないし、半年後あるいは1年後かもしれない)に役立つことがあるのをすでに経験済みだからだろう。

当事者で渦中にいるときは、こんな経験をしたのだから死ぬまで覚えているに違いない、と無我夢中で必死になっているのに、人というのはだから耐性が強いのか、割とあっけなく物事の細部を忘れてしまう傾向にあるような気がするのだ。

だから、あれは一体どういうことだったのだろう、どういう意味があったのだろう、みたいなことを考える際に参考にできる「日記」あるいはnoteを書いておくことは自分にとっては大切なことだ。

あの日、あの時、一体自分はどう感じ何を考えていたのだろう。

それをただ書き留めておく。単にそういうことなんだと思う。ある一日の記憶、のようなもの。あの日、生きていた自分の軌跡のようなもの。ただのメモ書きでも構わない。

そういう小さな想いが重なって人はいずれ死んでいくのだよなぁ。

書いても書いていなくてもそれは同じ。

子供たちが大きくなって、まだ日本語で何かを読めるのであれば、「あの時のママは実はこんなことを考えていたんだよ。」というふうに見せてあげてもいいかもしれない。

へー、そうだったんだ。

子供たちはそんな風に言うかもしれないし、言わないかもしれない。それともその頃には全く日本語に興味がなくなっていて、全く読めないかもしれない。読むためにまた日本語の勉強を始めるきっかけになるかもしれない。

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だから今日もふと頭によぎった考えをこうしてただ書き連ねている。

*タイトル画像はみんなのフォトギャラリーよりfairview_squareさんのイラストをお借りしています

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