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舞台を1日に2本見た日の話

先週の土曜日に珍しく1日に舞台を2本みた。昨日友人と飲みながらその舞台について話していて、久しぶりに何か書いてみようと思ったのがこのnoteである。

内容的には僕が見た2本の舞台の概要と感想、1週間経って考えたことを書いている。突然のオタク語りとコンテンツに対する批判的な内容を含むので、見たくない方はここでブラウザバックしてほしい。

1本目:『ノラ-あるいは、人形の家-』

1本目に見たのは、深作組による〈ドイツ・ヒロイン三部作〉の第一弾と銘打たれた『ノラ-あるいは、人形の家-』である。

深作健太氏演出の舞台を見るのはこれで3本目だ。僕はこの舞台の主演の夏川椎菜さんのオタクなのだが、深作氏が演出をしている舞台に彼女が3本出演しており、僕が見た深作組の舞台はその3本である。(つまり夏川椎菜さん目的と思われても仕方ないし、ほぼ正解である)

彼女が初めて舞台の主演を務めた『オルレアンの少女』を鑑賞した際、僕は深作健太氏が深作欣二氏の息子であることすら知らず、これも縁だし舞台でも見てみるか、と軽い気持ちで申し込んだのだが、今は舞台独特の演出にも慣れ、楽しめるようになってきた。

さて、『ノラ-あるいは、人形の家-』はノルウェーの劇作家、ヘンドリック・イプセンによる戯曲、『人形の家』が原作である。主人公のノラは無邪気でかわいらしく、夫のトルヴァルは彼女を愛玩しており、まさに人形のような女性である。この夫婦関係がとある原因で破綻に向かい、その中でノラは自身が人形であることを自覚し、自らの意思で生きていくことを決意するところまでがこの舞台の概要である。(この概要は今月の『現代思想+』の三木那由他さんの論考を参考に書いている。)

この『人形の家』は19世紀のドイツが舞台となっているが、途中でイスラエルのガザに関するナレーションが入ったり、劇中でノラが歌い出したりと、今ここにいる観客が常に意識されている演出が施されており、非常に楽しく観劇した。(2011年もののワインが出てくる一方で、自宅に仕事用のポストがあり文通しているシーンがあり、この舞台における時代設定に関しては最後まで理解が追い付かなかったのだが…)

舞台というとちょっと難しくて敷居が高いイメージはあるが、最近の舞台はどこもこんな感じで初心者に優しいのだろうか。演出側も夏川椎菜のオタク(=観劇経験が乏しい)を想定して分かりやすくしている気がする。みんなも怖がらずに舞台に行こう。

ということで、オタクが誤配的に舞台を目にする、というカルチャーシーンもいいなと思いながら帰宅してYouTubeを開いたところ、おすすめの一番上に出てきたのが2本目の舞台である。

2本目:舞台「リコリス・リコイル」

リコリス・リコイルは2022年7月から全13話で放送されたオリジナルアニメである。僕はこの作品がメチャクチャ好きで、アニメは3周くらい見たし、昨年銀座松屋で開催されたリコリス・リコイル展にも行って家にグッズが散乱している。このタイミングでこの舞台が無料公開されたのは運命であり、アニプレックスに足を向けて眠ることはできない。

数字的な評価は分からないが、この舞台は開催当初から話題を呼んでおり、僕のオタクの友人は何度も見に行っていた。オタクからも概ね好評化を受けている印象がある。今月から続編も上演されるらしい。

この舞台はいわゆる2.5次元舞台だ。2.5次元舞台の特徴はこんな感じらしい。

「2.5次元舞台の定義についてはさまざまな解釈がありますが、ファンの人たちが考える2.5次元舞台の特徴は次の5つです。まずは漫画・アニメ・ゲームを原作とした3次元の舞台であること、キャラクターや世界観の再現性が高いこと、そしてグッズの展開があること、さらにファンの関与があること、最後に俳優さんが役者だけではなくアイドル的な活動を広く行っていることです。この5つが重なったところが2.5次元舞台である、とファンの人たちは考えています」

進化し続ける「2.5次元舞台」 5つの特徴と魅力とは?(日経BP)

舞台「リコリス・リコイル」で特に特徴的なのは上記の内、「キャラクターや世界観の再現性が高い」ことだ。登場人物はアニメのキャラクターのコスプレをして演技をしている。

見た目だけではない。アニメキャラクターの声さえもかなり忠実に再現している。

リコリス・リコイルのアニメの人気の要因となったのは声優の演技であった。テロと治安維持がテーマとなる同作において、平和な日常を愛するメインキャラクター、錦木千束を演じる安済知佳さんの、自由さの中に秘めた切なさ・儚さを含んだ演技は当時話題となり、安済知佳さんは同年の声優アワードの主演女優賞を獲得している。また、もう1人のメインキャラクター、井ノ上たきなの声優、若山詩音さんも同時に新人声優賞を獲得している。

制作側はこのアニメのファンは彼女らの演技に非常に愛着があることを認識しているからこそ、話し方や抑揚の付け方にも拘っていたのだと感じた。

そして、この舞台はとにかくシーン作りが原作に忠実であるのも一つの特徴だ。今回の舞台は原作の7話までの話で構成されており、ところどころ話を混ぜて脚本が作られているが、基本的にアニメと全く同じセリフで展開されていく。6/4まで無料公開されているようなので是非見てみてほしい。
https://youtu.be/ShSYgDVM1JM?si=wpwVX-xFdpRUS4aH

僕はこの舞台を見たときに、(少し退屈な)ライブを見ている気分になった。僕はライブに行くときアーティストの曲を知っているように原作のアニメを知っていて、それが舞台という現場でどう演出されるかだけが楽しみの幅になっていると感じた。原作を再解釈する余地や観客の観劇の自由さなどは予め設定せず、観客側が期待している範囲で舞台っぽさを見せることを徹底していたように感じる。

コスプレや声を似せるキャラ作りは確かに素晴らしかった。ただ、その忠実さは観客のアニメのイメージを崩させないための「配慮」でしかなかったのではないかと感じてしまった。時折見せるアドリブのセリフや演出に関するメタ発言も、ライブで予想通りのMCを聞かされているような気分になった。

数字・成功のために誤配は不要?

アニメが原作の舞台、2.5次元の舞台はアニメからの流入を想定してあらゆる配慮がされているのは想像に難くない。世の中には原作厨、実写化を親の仇のように憎む人がいるし、そういうオタクのことを相当意識して作られていたのが舞台「リコリス・リコイル」であった。そして結果、続編も決まり、グッズも売れ、ビジネス的に成功を収めているようである。

それが良いか悪いかは分からないが、『ノラ-あるいは、人形の家-』では、オタクが思いがけずイプセン演劇に触れる機会を作り、ものを考えさせ、そして舞台の観客を増やすことを考えている。つまり誤配を起こす装置としてこの舞台は機能していたように思う。そして、僕はそういうエンターテインメントが好きだ。

そのような誤配は現代では嫌われるのも分かる。みんな忙しいし、求めているものがダイレクトに欲しいし、余計なことは考えたくない。誤配なんてクレーム対象かもしれない。僕は舞台「リコリス・リコイル」を、現代人のためにあまりに配慮された舞台だったと感じたし、エンタメ的に成功するということはそういうことを前提にした設計が必要なのかもしれないと思ったことをここに記録しておきたいと思う。

このnoteでは酷評のようになってしまったが、その日はリコリコ舞台も楽しく見ていたし、続編も機会があれば見たいと思っている。炎上対策みたいに見えるけど本当の話。

参考:現代思想2024年6月臨時増刊号 現代思想+ 15歳からのブックガイド(青土社)



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