終戦の日の雑記(8/15)

終戦の日。

今日、たまたま私は終戦の日に実家にいる。

相変わらずな家族関係。この世にあるらしいあらゆる行事を全てないがしろにしてきた家庭では、終戦の日の思い出も勿論ない。

子供に教えるべきことは山ほどあるはずだが、それを少しも教えられない親は全国でもたくさんいるのではないだろうか。

もし精神的に成熟した大人がいるのであれば、是非、こどもと戦争の話をしてほしい。教えるというより、話すほうがいい。「教えられるほど私は知らないから・・・」と思ってしまう親も少なからずいるはず。それでもいい。それはつまり親ですら「親から教育を受けていないから・・」という負の意識の連鎖である。

一緒に戦争映画を見ればいい。

そういえば昨日の晩、偶然リビングにいた母と私は金曜ロードショーの「となりのトトロ」を一緒にみる形になった。

子供の頃に「母親と映画を見た記憶」すらない私。いや、私が幼稚園にも通う前くらいに、「ミッションインポッシブル」を映画館で観たような記憶がある。ガムのような爆弾を戦闘機か何かの上でトムクルーズが使うシーンをなぜか憶えている。

恐らく、親となにかをしたことはたくさんあるのだが、それについての「会話」がなかった。親もそういう育たれ方をしたのだろう。そして、その育ち方に疑問を抱くようなことが不必要であった時代だったのかもしれない。(弊害でさえあったのかも。)

親の考え方と子供の考え方の相性がよくて、親子関係がうまくいく可能性はもとより限りなくないに等しいと考えた方がよさそうだ。

生きている時代が違うから。見えている世界が違うから。

それは気の合う友人を見つけることが難しいのと同じように、だ。

ただの偶然で生まれた家庭に、自分の気の合う友人が親として存在する確率は低いはず。そんな程度で納得しておこう。


しかし、流石に、終戦の日に「リモコンの位置が父親が決めた位置から少しずれている」ことや「録画したテレビ番組が誰かに消されている」くらいの話しか息子とできないような父親。終戦の日に「今日は終戦の日か」としか思わず、それからの思考の展開が一切ない母。そんな家庭は寂しいとどうしても思ってしまう。


そのうえで、私はそんなことはどうだっていいのだ。別に両親には両親にとって大切なことがあるのかもしれないし、もしそんなものすらなかったとしても、毎日生きることで精いっぱいなのだろう。両親も他人だ。他人に生き方を変えて欲しいと望むことほど時間の無駄な使い方はない。それは自傷行為ですらある。それよりも、自分が誠心誠意必死に生きていることがいつかどこかで自然に伝わって、彼らが自然に反省するようなことがもしあれば、というくらいの希望を心の片隅にそっとしまっておくくらいでちょうどいい。


私は今日も、今まで知らなかったことを学び、なにかをつくる。

それを淡々と繰り返す。

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