ネイティブ至上主義が怖い
外国語を教える系のコンテンツを見るとやたらと「ネイティブ」という言葉を目にする。「ネイティブの発音を手に入れよう」「ネイティブはこの言葉をこう使う」「ネイティブは使わない表現」etc… 外国語コンプレックスの強い日本人によく刺さる強力なキラーワードなのだろう。
ただ、ちょっと考えて欲しい。例えば外国人の友人が出来たとして、その人に自分と同じレベルの語力を求めるだろうか? 私は求めない。カタコトで話しかけられたら私もなんとかその意図をくみ取ろうとするし、相手が理解できる言葉を探してコミュニケーションを取ろうとする。そしてこれは日本語を母語とする人特有の行動ではなく、他の言語圏に属する多くの人に見られる行動である。考えてみれば日本語話者同士だってそうじゃないか。お互いが相手の語力を考えたうえでコミュニケーションを取っているし、語力に差がある場合では特に意識して話さなければコミュニケーションが成立しない。
習得しようとする側が高い目標を掲げる分には良いと思うし、相手を深く理解しようとする行為は素晴らしい。だが、教える側がネイティブを強調するのはどうにも引っ掛かるのだ。それこそ多様性の否定につながることなのではないかと。
言語交換アプリを謳うHelloTalkには投稿に対する修正機能があるが、修正を行った後にコメントを添えるならまだしも、それも無くただ他人が発した言葉に取り消し線をつけて修正するという行為が私にはおぞましく見えて仕方がない。日本語を勉強している人の投稿に対して、日本語話者が訂正を入れているのもよく見かけるが、そこまで訂正する必要があるのか?と感じることも多い。あれは指摘された「間違い」の程度が判断できない相手を支配しようとする行為に見える。教える側が強調する「ネイティブ」というワードにもそれと同じ根を感じるのだ。
私が神経質すぎるだけなのだろうか?
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