ダメならダメと言ってほしい。が、

noteは気楽だ。自分一人で好きなように文を書いて、自分の書きたいことを制限なく書ける。私はあるコミュニティで、人と創作している。人と創作する時、自分のしたいことが出来ないと悔しい気持ちになる。だからnoteは気楽なんだ。

自分の案がまるで無かったかのように別の案が進んでいくと、自分の案はダメだったんだ、それがどうしてダメだったのか、なぜ採用するに至らなかったのか、座り込んで考えてしまう。自分が感じる「良い」と他人の感じる「良い」は別だから、もちろん全て自分の思い通りになるなんて思っていない。案が通らなかったからと言って、拗ねて不機嫌になって駄々こねても意味は無い。でも私はまだ未熟だから、一度割り切る時間がほしい。「私の案は微妙だったんだ」と。それが無いと駄目なんだ。喪失感が怒りにならないように抑えるだけで精一杯で、何も手につかない。

ダメならダメと言ってほしい。私の案は何となくフワッと進んで、話が変わって、先輩が来て、彼が少し動いて流れた。消えた。私も「こだわりは無いんで」と笑って誤魔化した。嘘だ。思いついた時はこれをしたい!と思い、形にした。でも人に堂々と見せるほど自分のセンスに自信は無いし、私よりもキャリアもスキルも熱量もある人達に自信を持って話せない。どうしても否定された時のことを考えて、自信が無い素振りをしてしまう。だからいつの間にか流される。流された事に気づいて、悲しくなる。

でも、私もそうやって人の案を流してきた一人。相手を傷つけたい訳じゃなく、その案が違うと感じたから。理由はあるけど、相手の辛さも知ってるから、正面から悪いと言えない。言わない。ダメならダメと言ってほしい。が、そんなことは私には出来ない。私には人を許せる度量がない。

そういえば、あの人は私の案を見ても自分の体を動かそうとしなかったな。その時点で気づくべきだったのか。今になって悔しくなる。もしかしたら悪くないのかも、そんな期待がまた自分を苦しめるから。

私の中で絶対的な先輩がいる。何をしても敵わない。技術も、努力も、熱量も、愛も。その人が動けば動くほど、私は思考も体も動かなくなる。この人がなにか言えば、それが正しく感じるし、それが良く思えてしまう。
その人は優しい。常識もある。きっかり話してくれるし、話を聞こうとしてくれる。気を使って、私のこだわりを残そうとしてくれる。だからこそ、今日は辛かった。私のしょうもないこだわりで、彼の創作を邪魔したくなかった。
でも、どこかに消えた私の思いが悔しかった。

モヤモヤした気持ちを文章にすると、自分の不甲斐なさが露呈する。自分がされたくない事を、他人にしていたり。自分が招いた結果を、他人のせいにしたり。振り返る事を忘れると、主観と咄嗟の感情に支配されてしまいます。だから辛い時こそ、メモ帳に思いの丈を殴り書く。今とこれからの為に。

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