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どうにもならない夜

 諦めないリーダーが頼りになるのはヒロイック物語の中だけでの話である、ということを、本人は幸せにも、決して最後まで気づくことはなかっただろう。あの隊長さまは残念ながら、このどん底の吹き溜まりのどん詰まりで悪意も糞も何もかも垂れ流しのどうしようもない僻地の戦場にあっては、おれのブーツの底の溝に詰まって取れないあの石ころとだとか、最近気づいた治療しようのない右奥の虫歯だとか、そういったものと同じぐらい面倒な代物だった。やっとのことで死んでくれるというときにも飛び散った医療汚染汁だらけのベッドに横たわったまま忌々しくもああだこうだと騒ぎながら、最期には、おれに敬礼をさせてくれ、もう腕が上がらない、頼むから軍人らしく死なせてくれ、どうか頼むから、などと浮腫んだ顔でうめきながら死んでいった。
 その時は腫れ上がったぶよぶよの腕をおれがディスポ手袋つけた手で取ってポーズをつけてやった。腕がパンパンでとてもそのままでは曲がらなかったので、ことわりを入れてから軍服にハサミで切れ込みをいれなきゃならなかった。
 おれが面倒を見なきゃしょうがなかったのだ。序列で言えば次の指示役はおれになるので。隊長さまの腕を取りながらも、おれはこれからの段取りを頭の中で組み立てていた。いつもと同じように。次の隊長が来るまでの間、副長のおれは前と同様に、進みも守りもしないこのどろりとしたぬかるみの現状維持の体制を続けるのだ。何日、何ヶ月経っても変わらないこの死の夏の熱と湿気のもと、相手方とは長く横たわる湿地を挟んでの終わらない膠着状態が続いていた。状況や部下の戦死を報告しても生返事しか帰ってこないので司令部への報告は「隊長が死にました」「新しい隊長が着任しました」以外は随分前から取りやめていた。正確な戦況を把握しているやつは相手方にもこちらにもいないだろう。事が少しだけ動くのは、こちらに新しい隊長が補充の何名かの新兵を引き連れて配達されてきたとき。それも新任の隊長がこの地の仕組みを理解し、抱えてきた不安とちょっとした期待がその目から失せて、真に我が隊に組み入れられた時にすぐに収まる。理解するのだ。ここでは誰も勝利しないということを。この地では、何も起こさず、何も感じず、何もせず、たまに起こる偶発的な戦闘に自動的な反応を起こす程度にしておくのが、自然で賢明な行いなのだということを。誰もがそれをここに来て知る。あの隊長さまを除いては。
 あの隊長さまが、身体の臓器を熱い痛みで華々しく貫く勲章の銃弾ではなく、どう見ても格好悪い得体のしれない意思も持たない消化器系の風土病で死んだのは、不合理にも格好良くあろうとした彼の生き方に対する何かしらの自然のバランスのようなものが働いたのだろうと思った。
 善く在ろうとし、それに無理なエネルギーを注げば、死ぬときにはすでにそれは尽きていて、そしてどうしようもない死に様というひどいかたちで返ってくる。
 たくさんの死を見て、そして触れてきて、おれはそういうことに気づくようになっていた。それを信じるようになっていた。

 新任の隊長が来てから少ししてからのこと。その朝は珍しく涼しく、隊長がおれのテントを開けたときには爽やかな風が入ってきた。こんなことは何ヶ月ぶりだろうか、と思った。
 隊長の顔にはこの爽やかさに似合わず色がなかった。手には打ち出しテープを持っている。受け取り、それを読んで、おれは吹き出した。それは地図だった。
 この戦いは我が国に攻め込んできたやつらを追い出すための戦いだった。地図を見てみれば、地図のうえの、おれたちがいるはずの部分の国境はごっそりとえぐられていて、そのうえおれたちが戦っている相手でもないどこか知らない国の飛び地になっているではないか。
 この地図がメッセージのすべてか! あまりにも単刀直入でなかなか笑いが収まらなかった。でも笑い疲れてとうとう小休止を挟んだときに、乾いた空気の中をパァーンと銃声が鳴り響く音と、それに続いて大人一人分の重量が土の上に倒れる音がしたので、もしかしたら無理にでも笑い続けたほうが良かったのかもしれなかった。関係ないかもしれなかったが。
 なんにせよ、案の定そのあたりの藪で新任の隊長は死んでいたので、またしてもこの地の責任者はおれになってしまった。
 なってしまったものはしょうがないので、おれは兵を集めると、状況を説明した。そしてここに至っては特にできることもなかったので、解散を命じ、各員逃げるなり何なり好きにするように伝えた。唖然とするもの、やつらへ攻めこもうと息巻くもの、少し考えてから状況に気づいて愕然とするものなどがいた。おれにすがりついて来るものもいたが、おれはそれを笑いながら紳士的に引き剥がし、ズボンの埃を払うと、ひとりぶらりと散歩にでかけた。逃げる手段はこの地には無く、なんにせよもはやすべてが遅すぎたのだ。

 選べることといえば死に方ぐらいのものだった。

 まずは相手方の陣地へと行ってみた。そこは予想通りもぬけの殻だった。情報の早い相手方は昨晩のうちに脱出したようで、かの国独特のスパイスが使われた煮物の残りがあったので少し温めて食ってみた。やはりこの味を好むやつらとは友達になれんなと思い、鍋ごと蹴り飛ばしてそこを後にした。

 次に度々徴発を行っていた現地の村に行った。状況がわかっていないのかいるうえで諦めているのかしれないが、とにかくいつもと同じ平穏な暮らしが続いていた。芋ひとつと引き換えにおれの軍服のジャケットをどこかの農民に粗末な服の上から着せてやった。農民は不思議な顔をしていたが、おれは構わずそのままそこを去った。

 最後の目的地のあの隊長さまを埋めた貧相な墓の前に着いた頃にはすっかり日暮れになっていた。あたりには何人かの自殺した兵が横たわっていた。まさか残りのやつらは本当に突撃しにいったのだろうか。まあ遠い旅になるだろうがせいぜい喧嘩しないでがんばって行ってほしい。
 我が国がこの地を売り渡したか強請られたかしたあの国は、新しい土地が手に入ったときには徹底的な「整地」を行うのだという。あの国にとっては我が国から欲しいものといえば土地ぐらいのもので、この地の文化だの産業だの遺産だのなどはくれてもいらないだろう。あの国にはすべてがある。誰でも知っている。当然おれも知っている。

 西の空の遠くに見えるのは爆撃機の光だ。「整地」第一陣だ。まもなくどこもかしこも焼き払われ、真っ平らになった荒野には産業の種が撒かれ、尊き整備計画が敷かれたのちにはいと高き摩天楼の数々が芽吹くことだろう。

 この隊長さまの墓のうえには何が建つのだろう、とおれは考えた。夢中で考えた。高層住居? つまらない。複合ビジネスビル? もっと面白みがない。そう、できれば映画館、いや数々の遺産を収蔵した美術館だ。誰もがここに通い、過去の歴史に思いを馳せるんだ。いや。どれも違う。何かが違うんだ。何かが決定的に違う。なんだろう。思想か? 違う。永遠性か? そうだ。永遠性だ。そのためには何だ。何が必要なんだ。そうか。やくたいもないモニュメント。モニュメントだ。モニュメントだ! それも肉体的調和のとれた神話英雄のモニュメント! 誰もがそれを仰ぎ見て、一体誰がこんなくだらないものを作ったんだ? と不思議に思うようなドデカいものを建てるんだ! これはいいぞ! そうすれば誰も忘れることはない、そうすれば永遠になれるんだ! と思ったところで、おれはあまりのバカバカしさに笑ってしまった。

 あのバカバカしい隊長さまの、いつでも格好つけようとしていたロマンチストっぷりは、流石に忘れようにも忘れられなかった。おれの記憶にしっかりと熱転写されていた。だからこそこの墓に戻ってきていた。だからこそ、おれはあの夜、身体から染み出るリンパ液で誰も近寄らないほどの悪臭を放つ隊長さまの腕を取って敬礼させてやったのだ。

 結局のところ、おれも隊長さまを理解できる程度には情があり、そしてロマンチストだったのだろう。それをはっきりと自覚できたのがこのどうにもならない夜のことだったのが、決して遅いとは思わない。この地では、あるべきことが、あるべきタイミングで起こるのだ。それがこの地のルールだ。だからおれはこの夜でできる事を考えて、生きている間付き合ってやれなかった分、隊長さまの墓の上で精一杯格好つけてやることに決めた。それで埋め合わせになるかわからないが、すぐそこに飛んできている格好つけるべき相手を見れば、隊長さまもまあわかってくれることだろう。

 爆撃機のエンジン音はどんどん近づいてきていた。おれは隊長さまの墓へ最後の視線を投げると背を向け、まっすぐ敵機のほうへ向く。
 最期のポーズはわかっていたし、幸いにもおれはあの隊長さまとは違って自分でポーズを取ることはできた。

 爆弾を落とすやつにもよく見えるように、おれは胸を張って姿勢を取った。当の相手がおれを見たとき、一体何をやってるんだあいつはなんて思われるだろうなと思うと、おれはまたおかしくなって笑ってしまった。もしかしたら、このことはそいつの記憶には長いこと残るんじゃないか? そうすれば、おれはおれ自身で、おれと隊長さまの馬鹿げたモニュメントになることになるぞ。こりゃあいい。おれはまた笑った。まあ悪くはない。最悪ではない。笑いが止まらなかった。

 時は来た。おれはそれに備えて息を吐く。そして呟いた。わが人生に栄光あれ。

 おれは精一杯目を瞑らないようにした。

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