〈蛇の星〉-9 〈終〉
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朝が来た。陽の光に照らされて、〈八番目の理想郷〉はどこも真っ白に輝いていた。水路を流れる水は透き通っていた。清浄な空気は冷たく香っていた。
エキシは今年で六歳になる。今日はエキシら〈第十八番学校〉三期生の、待ちに待った〈卒業の日〉だった。
〈第十八番学校〉の講堂には、みな同じように髪の毛を剃り上げた百五十人の子供達が並んで座っていた。壇上の〈校長〉が言った。
「みなさん。おはようございます。昨晩はよく眠れたでしょうか。緊張のせいでよく眠れなかった人もいるのではないでしょうか。でも大丈夫。何も心配することはありません。ああ、私は今日という日のことを、大変に嬉しく思います。これから真に〈理想郷〉の一員となった皆さんと一緒に、〈理想郷〉のために働くことが出来るのですから。もしかしたら、この〈第十八番学校〉で働くことになる人もいるかもしれませんね。その時は、よろしくお願いいたします」
一呼吸置いてから、〈校長〉は言葉を続けた。
「みなさん、準備はよろしいでしょうか。もし体調が悪い人がいたら、手をあげてください。どうでしょうか。大丈夫なようですね。あまりお待たせするのも、よくないかもしれません。それではこれから、みなさんの〈卒業〉を始めます。名前を呼びますから、順番にこちらへ来てください」
そして〈校長〉は、エキシの名前を読んだ。エキシは階段を登り、壇上に上がった。壇上には、白い〈校長〉の演壇と、それと同じように白く、背もたれの長い椅子があった。エキシは〈校長〉に一礼をすると、椅子に座った。そこからは他の三期生達全員を見渡すことができた。
頭皮に麻酔薬が注入される間も、エキシはまっすぐ前を向いていた。そして思っていた。これから自分はどんな人間になるのだろう。これから自分は〈誰〉になるのだろう。これから、どんな人生が待っているのだろう。
ああ、それでも〈美しい人々〉になれるのだから。これで〈理想郷〉の真の一員になれるのだから。これほど嬉しいことはないのだろう。これほど名誉なことはないのだろう。彼はそう思考を締めくくると、静かに目を閉じた。
後頭部にマーカーで印を付けられる感触。その後、ゆっくりと頭蓋骨をドリルが貫いていった。しっかりと伝わってくるその音と振動のことを、エキシは少しだけ、ほんの少しだけ、おそろしいと思った。
◆
〈美しい人々〉は白い肌をしていた。かすかに生える体毛も白く、手足はすらりと細く長い。大きな頭を持ち、高い背を屈めるようにして歩く、〈理想郷〉に生きる彼らは、その大きな瞳で何もかもを見通していた。彼らの年齢は、毎年一本ずつ増える頭のアンテナから知ることが出来た。
彼らは高い知性を持ってはいたが、短命であった。生まれてから二十年ほどで死んだ。〈理想郷〉に生きる人間は、〈卒業〉を控える子供達を除いて、一人残らず〈美しかった〉。
〈世話係〉も〈美しい人々〉の一人である。極めて聡明で特に〈美しい〉とされていた〈世話係〉は、〈理想郷〉の中でも特殊な職業についていた。
今日も〈世話係〉は、〈老人たち〉のもとへ向かうべく、長い白亜の階段を登っていた。〈世話係〉は〈卒業〉してから、ずっとこの仕事を続けていた。
〈老人たち〉は七人いた。彼らの名前を知るものは誰もいなかった。〈世話係〉は彼らのことを、〈美しくない〉、と感じていた。
事実、彼らは〈美しくなかった〉。だが〈美しい〉者だけが生きる〈理想郷〉を支配しているのはこの〈美しくない〉彼らだということも、聡明な〈世話係〉にはわかっていた。
◆
〈エリック立花〉は、〈世話係〉に身体を清められながら、〈老人たち〉の他の面々に向けて言った。
「〈出産〉は、順調か」
〈老人たち〉は、声を揃えて答えた。順調です。
「〈卒業〉は、順調か」
〈老人たち〉は、声を揃えて答えた。順調です。
「〈再利用〉は、順調か」
〈老人たち〉は、声を揃えて答えた。順調です。
〈エリック〉はそれを聞いて満足した。これが彼らのいつもの会話だった。
決意を固めた〈エリック立花〉に取って、〈廃物街〉を生まれ変わらせるのは、長い時間が必要ではあったが、不可能なことではなかった。
彼と〈正気団〉は二十年の時間をかけて、かつての廃物再利用システムを蘇らせた。
彼と〈正気団〉はもう二十年の時間をかけて、新たな〈理想郷〉に住むべき人々をデザインした。
彼と〈正気団〉はさらに二十年の時間をかけて、〈理想郷〉のエコシステムを設計した。
全てが整った時には、彼らはすっかり老人になっていた。
〈美しい人々〉は彼らの最高傑作だった。現時点の人類が到達出来る、知性と理性の結晶だった。彼らは完璧に近い存在だった。
彼らが存在する限り、〈理想郷〉は永遠に続いていくだろう。その繁栄は世界に保証されるだろう。人類は永遠に改良と成長を続けるのであろう。
だがしかし、〈蛇〉に接触した〈老人たち〉には、その永遠は存在しないであろうことがわかっていた。全てが徒労に終わるであろうことがわかっていた。それでも彼らは諦めることは無かった。限られた時間の中で、彼らは完璧を追い求めた。
それが彼らの生きる目的となっていた。
◆
ある夜、〈蛇〉が〈エリック立花〉の夢に現れた。それは実に六十年ぶりのことだった。そして〈蛇〉は言った。〈敗北〉が近いと。
「そうか」
とだけ、〈エリック立花〉は言った。
〈蛇〉は言った。
「我々には何でも出来る。我々の前には何億もの道が拓けている。我々には無限の可能性がある。不可能なことは一つだけ。それは勝利することだ。我々は勝利にたどり着くことだけは決して絶対にないだろう。幾度かの小さな勝利は勝ち得ても、最後にはきっと決定的な敗北と巡り合うのだろう。我々はそのように生まれたのだから。それが〈宇宙の定め〉なのだから。それが世界であり、そして我々はその一部なのだから」
それに答えて、〈エリック〉は言った。
「それで?」
〈蛇〉はそれ以上何も言うことはなく、ただ夢から消え去った。
〈エリック立花〉は夢の中で考えていた。ああ、それでもきっとうまくいくさ。おれたちの〈完璧〉は、きっとうまくいく。そのはずだ。おれは信じている。自分たちのことを。〈敗北〉? ハハハハハ。知ったことか。〈勝利〉できない? くそくらえ。〈宇宙の決まり〉? くそくらえ!
〈エリック立花〉は、それだけを最後に思うと、幸せそうに目を閉じて、頼んだぞ、と呟いた。
◆
そしてその晩、地球上から〈理想郷〉は消え去った。〈勝利の軍隊〉が、〈決定的な勝利〉と〈混沌〉を携えて、地球上に存在した〈秩序〉と〈理性〉を完膚なきまでに破壊したのだ。これで地球から文明は完全に死滅した。人類は一掃された。〈勝利の軍隊〉は、地球における〈蛇〉の駆逐の完了と、〈完全なる勝利〉を宣言した。
だがしかし、それと時を同じくして、地球のある一点から、小さなスペースシャトルが発射された。それは極めて小さなものだったが、これまでに作られたどんなものよりも、白く、美しく、そして完璧であった。その完璧に行われた偽装は、〈勝利の軍隊〉の執拗に生存者を探す目をもくらませるものだった。
それは〈老人たち〉、それに〈美しい人々〉の手によって六十年をかけて計画され、設計されたものだった。このシャトルの中には人類の播種のために必要な全てが詰まっており、その船長はかつてルーク鈴木と名乗っていたある老人であった。
〈植民船〉は地球を置いてその速度を上げていった。誰にもそれに追いつくことは出来なかった。彼らは、誰も知らない目的地に向けて、宇宙の暗黒の中を突き進んでいったのだった。
彼らの前には、何億もの道が拓けていた。彼らには無限の可能性があった。彼らに不可能なことなど、何も無かった。
<おわり>
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