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ラカン読んでたら自分の精神分析のようなものが出来て自分の歪みがわかってしまったわ

 いやー参った参った。

今こういうものを読んでいます

 めちゃめちゃ面白い。フロイトの流れを組むラカンというフランスの人が考えたいろいろな理論についての入門書なんですが、まあどこを読んでも面白い。自我の形成過程についての理論である鏡像段階とか、言語の構造とか、欲望とは何かとか、一見名前だけ見るとばらばらなカテゴリーの話に見えるんだけど「実はこういうことでこうなんだよね」という繋がりが読み進めるうちに見えていくような気がします。それともおれがそう思ってるだけか!?
 以下ガバガバ説明ですが理解できた範囲でかんたんに……

具体的にどういうのなのよ 

 自我とは何か、ということを考えると、「意識を持って自分の身体を統一的に操る、自分にとっての確固たる中心のようなもの」というような認識がだいたい一般的にはあるんだろうなあと思うんですけど、ラカンの理論ではどうもそうではないようで……。
 まず一人の赤ん坊がいるとします。まわりには何もありません。まわりに何もない赤ん坊が、自分自身とは何か? というイメージを掴むことができるかというと、まあ無理でしょう。ということで、まずがあります。
 そこにその赤ん坊のお母さんが現れます。赤ん坊はお母さんを見て、お母さんに触れて、お母さんの乳を吸い、お母さんの声を聞きます。これにより赤ん坊は、自分には他者を見る目があり、他者に触れる手があり、他者から食べ物を受け取る口があり、他者の声を聞く耳があると認識し、またこの体験から、世界には自分とそれ以外の他者がいる、ということを認識します。
 しかし、この時点での赤ん坊の自分自身についてのイメージとしては、それぞれバラバラの、結びついていない「目」と「手」と「口」と「耳」だけがあります。ここまで書いて鼻とか肛門とか生殖器の存在も思い出しましたがまあそういうものもその辺に多分あります。ありますが、それぞれはバラバラで、連携してはいません。
 ここで鏡が登場します。赤ん坊はお母さんに連れられて、鏡で自分の姿を見て、なんじゃこれはと思い、自分を抱きかかえるお母さんの顔に振り返り、また鏡を見て、ああそうか、このこれは自分と母親なのかと理解し、そうすることで、赤ん坊は自分の全体像を初めて目にします。
 ここで赤ん坊は、自分には「目」と「手」と「口」と「耳」以外にもあるやんけ! こんなかたちしてんのか! と知るわけですが、この時何が起こっているかと言えば、「目」などのように、運動させることで存在を知った器官が既にそこにある、ということと、「目」など以外の何かもどうもそこにあるようだ、ということを知ります。
 自分自身で自分の身体のすべてを支配してその全体的な把握をする前に、鏡に映った像を見ることで、「目」など以外の、自分でまだ支配・把握出来ていない部分についても含めて、自分の身体の全体的な統一されたイメージの把握を予知的に突然してしまうわけです。
 しかしそれは、鏡によって、自分の全体的なイメージを知っただけ話であって、自分自身で手にしているイメージはいまだ「目」と「手」と「口」と「耳」だけです。
 ということで、鏡から知った完璧な自分と、実際に知っている分断された自分との間に深い溝が出来てしまいました。そこから、そのあいだの差と、分断された自分を埋めるために、赤ん坊はいろいろやって獲得したイメージの層を分断された自分に積み重ねていき成長していきます……。
 そうやって出来たイメージの層がラカンで言う自我というわけなんですねえ。ああなんか違ってそう。怒らないで。

 でそういう話があったうえで、AとBとCっていう単語があったとして、そこからBとCと取り除いてAだけにしたら、Aってなんなのよ? ある単語は他の単語がないと成り立たないよね……っていう話に飛んだり、そこであれこれって自分と他者の話じゃねってぼんやり思ったり、本当は<絶対的な他者>の話ができると一番いろいろ繋がるんですがすいませんまだうまく説明出来ません。L図わかんね。100回読み返さないと無理だわ。

でお前はどうしたの

 まあその先の話も色々読んでて、欲望の話を読み終えた時点で突然ハッと気づいたんですけど、どうも自分についての問題は「完璧で完全な親を求めていた」ことに端を発するのではないかと気づいたわけですね。

 昔からなんとなく親に対して不満がありまして、愛情表現やら何かテストを褒めてもらったりしても全く完全に嬉しくなかったり、今でもさっぱり恩やら何やら感じているわけでもなく、かといってネグレクトをされていたわけでもないので、なんだろうなあとは思っておりました。

 でそういえばずっと「この親はおれの必要とする親としての役割を果たしていない」ということを考えていたなあと思いあたったわけですね。具体的にどうして欲しかったかと言えば、まあ色々な疑問を真摯に聞き……考え……答えを与えてくれ……おれのことをよく理解し……おれを導き……のような、フィクションに出てくる理想的な両親であって欲しかったんだろうとは思いますよ。

 なんかこいつら親のポーズだけしてんな~~みたいな感じはあったんですよね。

 まあ事実はどうあれそういうふうに受け取ってしまっていたわけで、じゃあそこで子供の自分はどうしたかと言えば、「完璧で完全な親=他者=人間のイメージ」について同一化をして、そことの差を埋めようとしていくわけですよ。ここ欲望の理論を読むとなんとなくあれだと思うんですけどあれえ合ってるのか? 

 まあとにかくですね~~もうね~~こうなると昔の奇行とかこだわりについての説明がバリバリつくんですよね~~いや参っちゃったな~~。

 例えばリアルで会った人ならわかると思うんですが、まあ頭を剃ってるんですよ。もう10年ぐらいじゃない? で髪の毛伸ばしてたころどうしてたかというと、なるべくホールド力が高い整髪料でかなりキッチリ決めてました。で髪型が乱れるとも~~落ち着かない落ち着かないっていう感じで。整髪料使う前でもとにかく髪型気にしてたなあ。
 でどんどん髪を短くしていって最終的には剃ったわけなんですけど、これなんでかって言えば「乱れていない髪型は完璧」なんですよ。で世界で一番乱れない髪型といえばスキンヘッドなわけです。なるほどね。スキンヘッド滅茶苦茶落ち着くんですよね。

 「不変=完璧」のイメージとしては子供のころから早いところ大人になりたかった、というかなんなら中年になりたかったというのがあって、まあそれも成長しきれば変わらないから、ということなんでしょうなあ。

 でじゃあ完全になったかと言えばそんなことはなく、そういう自分が「どうあっても不完全な自分」を見せずに済むネット空間にハマるのは当然であって、でしかも見せ方をうまいこと工夫すればネット上では「自分で納得できる自分」を表現できるわけですから、そういうことになればそういう自分を見せたがるようになるわけで、こういう文章書いてるのもそもそもその一環だよなあ。

じゃどうすんの

 まあ~~歪みは歪みとして見える化出来たしそこでいいかな~~解消するとなると親と対決して「お前らは欠けている!!!!」とか宣言するハメになるわけでしょ~~やだわ~~みたいな。

 とにかく今の段階ではこういうふうに思うなあということをまとめてみまして、おそらく今後考えが改められるであろう時期に活用するためと、またネット露出癖を満たすためにアレしました。露出しろ!

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