【短編小説】痛みの顛末
結局のところこういうことだ。
おれが自分から殴ったわけではない。おれが打ちごろの甘いストレートにあわせてスイングしたところにちょうどあの捕手が頭を出してきたのだ。パカンといつもと違う音がなり、あいつはなんだか幸せそうな顔をして失神して、練習試合はそこで終わった。
やっちまった、と思うとともに、今おれはすべてを失ったのだと悟った奇妙に爽やかな感覚がおれを襲った。
「悪かったな」
夕陽の差す病室の前で投手の佐々木がおれに言った。あの甘い球を投げた奴だ。吐く言葉も態度もスキだらけに見える。お人好し。世間知らず。
バッテリーの頭を金属バットで打ち抜いた相手に言うことが『悪かったな』? おかしなやつだ。
結局あの件は試合中の事故ということで片付けられた。おとがめはなかった。
それでも長椅子に座ったままのおれはいかにも苦しげな目を作ってから佐々木を見上げた。
「ああいや、こっちもよく見てなかったというか、気づけなかったみたいで……というか気づいたときにはもう」
「あいつは、浪川はおかしなやつでね。君も人の頭を殴ったりして嫌な思いをしただろう」
佐々木投手は顔をアルコールティッシュで拭きながら隣に腰掛けた。
「実はこれが起きるのははじめてじゃない。一年の君は知らなかっただろうが」
そして佐々木は目だけでこちらを見つめた。
「気づいていなかったとは思うけど。あいつはバットで頭を打たれるそのときまで君のことを見ていたんだよ」
そんなことわざわざ聞かすなよ、と思った。
◆
結局浪川の意識は夜になっても戻らず、おれは寮に戻って買ってきた弁当を食べていた。飛んでくるよりも自分を殴る(であろう)バッターに注視する捕手とはなんぞや。試合を止めたかったのか。それとも単にその行為が目的なのか。
そして人の頭を金属バットでフルスイングするという体験を経たおれの中に昏く蠢く罪悪感をすら押しのけるこの感覚は何なのか。
その日はうまく眠れず、夜が開けるまでひたすら素振りをしていた。自然と狙うのはあの位置になっていた。確かに頭がそこにはあって、それは朝までに何千回も激しく揺れた。
◆
「ついていけないんだ」
翌日の病室前。佐々木投手は焦燥した顔で相変わらず目だけでこちらを見ていた。
「浪川とは子供の頃から一緒に野球をしていて。ずっとおれがピッチャーであいつはキャッチャーだった。あいつは勉強も運動もなんでもできて、愛想もいいしなにより本当にいいやつなんだ。今でもあいつが最高の捕手だと思う。けどだんだんおかしくなってきてる」
身体と足先の正面はしっかりと浪川が眠る病室に向けて彼は言葉を続けた。
「半年前の練習中に、今みたいなことが起こったんだ。コーチが打った球が頭に横からぶち当たって。起きたときあいつなんて言ったか、『ああこんな体験ははじめてだった』だぜ。なんて言えばいいんだよおれは」
「一種のエクスタシー体験になったんでしょうね」
「は?」
「思考の連続性を断ち切るためのリセット方法が睡眠以外にも必要な人種がいるってことですよ……」
おれは長椅子の下から金属バットを抜き出した。ガラガラと音が響いた。
「あんたがもう浪川にやらなくなったから、やれなくなったからおれにお鉢が回ってきたんでしょう? これまで何人にさせてきたんです? 何人が浪川の頭を? ズルい人ですよ」
佐々木の息を呑む様子が見もせずに伝わってくる。
「病気だと思うなら医者に見せればいい。そうじゃなくてどうにかしてやりたいならどこまでも付き合ってやればいい。どちらも出来ないなら善人ぶらずに離れていくべきなんです。じゃないとほら、おれみたいに変なことに気づいてしまうやつがどんどん増えるわけですよ。人の頭を金属バットで殴るとどんな感じがするかって。そんなことをしてしまったときの強烈な罪悪感がどんな味がするかって」
おれは立ち上がるとバットを片手に病室の扉を開けた。浪川は意識を取り戻していて、待ち構えていたようにこちらを見つめていた。
「"こういうこと"があるのも初めてではないはずだ。そして佐々木さんは止めない。そうでしょう? 大事な相方がこれを求めているんだから」
おれは素振りを始めた。昨日の夜から通算して何千回目かの。
「あんた、なにもできないならせめて見張りぐらいはしてくださいよ。あとせっかくなんであれ、お願いしますね」
「あれ?」
おれは満面の笑みを作ると言った。
「今から野球すんですから! 言うこと一つしかないでしょ。ねえ」
病室の扉を後ろ手に閉めて中に入る。扉の向こうから聞こえるのは震える声のプレイボール。浪川の期待に満ちた顔がベットから乗り出て差し出される。
昏く燃えるおれはグリップを握りしめる。
そして第一球が投げられた。パカンという音がして、病室に鮮血が飛散った。
聞こえるのは大歓声。舌を出して痙攣する浪川。燃え上がるおれは止められなかった。廊下からはずっと、情けないうめき声が聞こえてきていた。
試合はまだ始まったばかり。みんなスタミナは十分だ。おれはとうとうこの世の春を知ったのだった。
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