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ビートルズ風雲録(21) 帰国、そして新たな歩みへ

ハンブルクから追い出されるように帰国した、我らがビートルズ一行。
1960年末。リバプールでなにかが起こる?


ポール、あっさり退職

さて、ハンブルクから追い出されるように帰国した、我らがビートルズ一行。
金もない、仕事もない。
父親に叱られたポールは、仕方なくコイル巻き工場に就職する始末。
しかし、立ち直りも早いようです。
最後に帰国したジョンが帰国後1週間も経たないタイミングで、ジョージとともにポールの職場に現れます。
キャバーン・クラブで仕事がある。いっしょに来ないか?
ポールは、ちょっと迷っているようなことを答えつつ、しかし心の中は決まっています。
その場で職場を放棄してジョンとともに音楽の道に進むことを選びました。

そして12月17日。名門キャバーン・クラブではありませんが、古巣であり、お馴染みの場所、カスバ・コーヒー・クラブでのライブに登場することになります。
スチュワート・サトクリフがハンブルクに残ったため、ベースはピート・ベストが所属していたバンド、ブラックジャックスのチャス・ニュービーを助っ人としてスカウトしました。チャスはリズムギター担当でベースなど弾いたことがなかったそうですから、ここらへんも結構適当ですね。
チャスは借り物のベースを持ち、おとなしく目立たないようにしていたそうです。
そして本番。1曲目。ポールがハンブルクで大うけだった『のっぽのサリー』をシャウトします。

なにが起こっているんだ?

『のっぽのサリー』。リトル・リチャードの傑作。
当時、定番のオープニング・ナンバーです。
しかし、リバプールのファンにとっては、聞いたことのない衝撃のサウンドでした。
会場は興奮のるつぼと化します。
おとなしい音楽なんか糞くらえ、派手にやってくれ!
アメリカ音楽の最新シーンを知るハンブルクの船員たちを満足させたビートルズのパフォーマンス。
リバプールの若者たちを熱狂させたのは、当然といえば当然でした。
演奏技術は以前とは比べ物にならないほど上達しています。
1日10時間も演奏していたのですから、カスバのライブなど朝飯前だったでしょう。

カスバ・コーヒー・クラブに続いて、ビートルズはリザーランド・タウン・ホールの公演をこなし、そのサウンドに観客は熱狂します。

しかし面白いことに、まだ多くの観客がビートルズをドイツ人だと思っていたようです。
これは、「ハンブルクから来たビートルズ!」という宣伝文句の影響ですが、人々は、今まで聞いたことのない強烈な演奏に、得体の知れない異国の大都会ハンブルクのイメージを重ねていたのかもしれません。
そんな誤解は、ほどなく解消しますが。

こうして、まったく一夜にして、ビートルズはリバプールのナンバーワン・バンドとなりました。
絶叫と失神のファン、「ビートルマニア」が生まれようとしています。
当時、ハリケーンズのメンバーとしてリバプールでビートルズとともに演奏していたリンゴは、こう語っています。
「ハンブルクから戻った時、リバプールの音楽シーンは変わっていた。リバプールのナンバーワン・バンドとしてハンブルクに渡ったけれど、戻って来たらそうではなくなっていたんだ。自分たちのピークは過ぎていた」

プレスリー、リトル・リチャードに魅了されてアメリカ音楽の素養を身に着けた若者たちは、ハンブルクとリバプールで鍛えられ、のち、ついにアメリカに逆上陸、世界の音楽シーンを席巻するのです。

さあ、激動の1960年が暮れようとしています。
1961年、彼らを待っているのは何か?


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