ビートルズ風雲録(13) ジュリア・レノン、死亡
1958年7月12日、クオリーメンは自費でレコードを制作します。ますます音楽活動にのめりこんでゆくジョン・レノン。
そのわずか3日後にジョンを悲劇が襲います。母ジュリアが交通事故で命を落としてしまうのです。
1958年 ジュリア・レノン、死亡
1958年7月15日
その日もジュリアは愛する息子ジョンに会うために、姉ミミ(ミミおばさん)の家を訪れていました。
ジョンがジュリアと別居したのは、そもそもは父親が行方不明になり、ジュリアが別の男性と暮らし始めたため。ミミおばさんがジョンを心配して引き取ったのです。
しかし、ジュリアのジョンへの愛は変わりません。ジュリアはジョンにバンジョーを教えたり、最初のギターを買い与えたり、クオリーメンのライブを見に行ったりと、彼の音楽活動を応援していました。
そんなジュリアが、ミミの家から帰宅するためにバス停に向かう途中のメンローヴ通りを横切る時です。大きなブレーキ音がしてジュリアの体が宙に浮き、そして地面に叩きつけられました。ジョンを遊びに誘いに来た、幼友達のナイジェル・ウォーリーがその様子を目撃しており、急いでミミを呼びます。ミミはジュリアに付き添って救急車でセフトン総合病院に行きます。しかし、ほぼ即死状態だったようです。助かりませんでした。
ジョンはジュリアの夫ジョン・ダイキンスとタクシーでセフトン総合病院へ向かいました。
しかし、ジョンは母の姿を決して見ようとはしなかったそうです。葬儀の間もミミのひざに顔を埋めて泣いていたとか。
ジュリアの死はジョンの心に深い傷として残ります。後に「ジュリア」「マザー」「マイ・マミーズ・デッド」という曲で、母とその死に向き合うことになります。
長男のジュリアンは、彼女の名前をとって名づけられました。
裁判
車を運転していたのは、この日が非番だった24歳の警官、エリック・クレイグ。免許をとったばかりの初心者ドライバーでした。車はスタンダード・バンガードというイギリスでは一般的な車種。制限速度30マイル以下で運転していたとのことですが、メートルに変換すると時速約50キロメートルですから、急に歩行者が前に飛び出してきたら、よけきれるものではありません。
クレイグは「レノン夫人が急に目の前に飛び出してきて、よけることはできなかった」と法廷で証言しました。
これが認められ、ジュリアの死は不慮の事故という評決が下されました。クレイグは短期間の職務停止だけで無罪放免となります。
ミミはその評決を聞いた時、怒りのあまり、クレイグに向かって「人殺し!!」と叫びました。
その後のエリック・クレイグ
結局、クレイグは警察を辞めて郵便配達員になりました。ポール・マッカートニーの実家であるフォースリン・ロード20番地あたりの配達を担当します。
ビートルズが有名になり、何百通ものカードや手紙をその家に届けたのがクレイグでした。苦い記憶を呼び覚ます、つらい仕事だったようです。