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教育 = 神

人間だけが持つもの

 人間は羊ではない。

 同じ自然の産物として、人間だけが持つものは何か。その一つは、「秩序維持の複雑さ」だ。人間は、生きるために文明を作り、社会を形成した。システムが複雑になりすぎた結果、人間はいかにこの複雑化したシステムを維持すべきかを工夫してきた。事業活動の規模が大きくなるに連れて、会社を維持することのみを目的とする部署が必要になることを考えると、想像に易い。

絶対的正しさとしての「教育」

 さて、教育とは何なのだろうか。私は、「教育=神」と考える。先日、映画『猿の惑星-新世紀-』(『猿の惑星』のリメイク)を観た。進化した猿と人間による生物種間戦争を描いたSFモノである。猿がインテリジェンスを持った結果、人間と同じように猿社会の秩序維持も難しくなっていた。その猿社会では、猿のリーダーであるシーザーのいうことに絶対従うことがルールであり、彼は仲間の猿を統率していた。シーザーが絶対に正しいのだ。彼は賢明で善良なリーダーであるためうまく周りを導いていたが、彼に絶対服従など、完全に「押しつけ」だ。しかし、原始的な文明社会の中では、このような「押しつけ」で十分だ。


 人間の原始的社会では、神に従うことでうまく生活を営んでいた。これも、神の「押しつけ」だ。不自由な世界で生き続けるためには、絶対に正しいと思える何かにすがるしかない。長い歴史のなかで、人間はより合理的に生きるようになり、神の時代は終わりを告げた。そんな社会でも「絶対に正しいと思える何か」が必要だ。それが「教育」というフィクションである。社会の構成員が教育によってある程度同質の価値基準を持つことは秩序維持につながる。そのため、構成員に対する教育の「押しつけ」は一向に構わない。

 教育の破綻


 教育の必要性、また、その担い手である教師の果たすべきことについて考えよう。「秩序維持の複雑さ」の克服が教育の本質だ。人間が人間である限り、社会維持のために教育は必要だ。そして、教師はその教育を「正しい」ものするように努めなくてはならない。あくまで教育は「絶対に正しいと思える何か」であり、常に移り変わる相対的な「正しさ」なのだ。「正しさ」は互いにぶつかり合い、時に良識や道徳を凌駕する、圧倒的な「悪」になりうる。それを避けるために、教師(学校の先生に限らない)は何が正しいのかを慎重に見極め、慎重に「押しつけ」なくてはならない。


 「秩序維持の複雑さの克服」をした先には、価値観の共有、他者と分かり合える「幸せ」がある。

 私たちは、群衆と協力していきたいというこの願望に黙従すべきだろうか、それとも、私たちの教育は、そうした願望を弱めるように努めるべきだろうか。どちらの側にも言い分がある。一方の側に軍配をあげるのではなく、適当な釣り合いを見出すことでなければならない。

 人間は羊ではない。管理される対象だとしても、どのように管理されると幸福かはひとそれぞれである。そして、羊でさえ、どれも同じではない。

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