見出し画像

転職は全然かっこよくない。仕方なく運命の波に従っただけ

大学の時代に、塾の教師をやっていて、この塾がとてつもなく『ブラック』だった。他人からは、多分そう見えただろう。やってる本人たちは、全くそんなことはなく、陸士上がりの塾長の理想を実現しようと、懸命に青春を生きていた。睡眠時間は、4時間。土日は生徒を連れて、合宿登山。時に自分よりも年上の親を呼んでは面接を行った。そんなことをやっていると、就職氷河期と言われていたが、逆に面接官を面接していたようなもんだった。

幾つか内定をもらって、一番最初にきたN自動車に決めた。Aの素やP、D印刷など次々と内定を得た。
N自動車に入ってからは、工場生産課、輸出業務、中近東部と車の流れに沿った道を歩かされた。

転機は不意に訪れる。最愛のパートナーが、癌にかかった。彼女が23歳の時だった。とんとん拍子に階段を上っていたが、蹉跌があった。彼女と闘病し、でも甲斐なく25歳で逝ってしまった。そのままであれば、中東の新会社に勤務という筋だったが、子供もいて、国内営業に異動させてもらった。
第一の転職と言えるかもしれない。妻の闘病時に不思議な人々と出会って、人生観も変わってしまい、ある方と一緒に仕事がしたくて、課長職についてからすぐに会社を辞した。本当の意味での、転職だった。その人が、手に技術を持っており、その技術を使って、新しい仕事を立ち上げるということで、東京から福岡に転居した。

福岡での仕事はホテルマン、遊技場経営、その他いろいろこなした。私は、経験も薄かったのに、社長に対してご意見を進講する役目を担った。ホテルや遊技場(パチンコ屋)の裏を見てしまい、社長に問題点を指摘すると、取り巻きの重役たちから村八分にされ、結局追われるように福岡を去ることになった。N自動車で得た、多少の蓄財は、福岡での新居の生活と東京に戻って来る引っ越し費用で全部消えた。第二の転職は内圧による辞任だった。

東京に戻って、ネットを使って職を探した。(当時としては、まだネットが始まったばかりだったが)上手く見つかって、外資系のM日本に籍を置くことになった。乗用車では有名だが、商用車を初めて日本で取り扱う最初の部門に入った。前々職の自動車会社の国内営業部門での仕事は、法人営業であり、特殊車両を扱っていたので、車両の改造や商用車を扱っていたので、比較的に容易に仕事にはなじめた。そこで10年ほど仕事をしたが、やはり商用車を本格的に拡販するのは、日本では難しかったのだ。ドイツ系のM自動車は世界一の商用車メーカーだったが、日本の物流で用いられる国産車の車両の品質とサービス体制を構築することが出来なかった。日本法人とドイツ本社は商用車の撤退を決めた。

第三の転職である。会社からは、同社の金融系子会社を進められたが、バカな選択をした。自分で外に出て、一がまた始めようと、無謀な試みをしたのだ。それまで、ずっとメーカー系で生きてきたので、金融を学ぼうと生保を選んだ。外資系だ。明らかに失敗だった。自分は営業的な人間ではないのだ。正社員にはなったけれど、続かないと自覚し、長野県の自動車部品製造会社に転職をした。第四の転職である。ここまで、読まれた読者の皆さんは、転落の道を一直線、とみられているだろう。その通りだった。

努力をしないで、嫌だなどという泣き言で転職をすれば、結果は同じである。家族を東京に残し、単身で長野に赴任した。M自動車時代に、ワンルームマンションを四部屋購入したのだが、その借金の返済で、首が回らない寸前まで追い込まれた。苦しかった。

転職を何回か行って、身に染みて気が付いたことがあった。同じ日本語をしゃべり、日本人だと思っていたのだが、そこには、お国の差がはっきりと存在した。博多の人、長野の人、上田の人、長崎の人、熊本に人、鹿児島の人、、。基本的に、よそ者に対しては優しくない。特に自分のような東京でしか生きてこなかった人間には、そこら辺の感覚の違いが判らなかった。
家族と離れて暮らすのも辛かった。冬は零下15度を超える寒さの日もあった。部屋の中で零下4度だった。仕事は、海外工場を立ち上げることだったが、その時例のリーマンショックが起きた。入社して間もなかったことと、仕事にも上手くなじめなかったこともあって、肩たたきにあった。この時50歳。
五回目の転職である。もう、雇ってくれるところは少ない。職を選んでいる余裕はなかった。川崎市にある特養が募集していたので、そこに応募した。あっさりと採用された。施設長から、3時間持てば、3日大丈夫。3日持てば、3週間、3週間持てば、3か月、一年、3年と、、。子供のおむつを替える経験はあったが、大人のそれは、大変だった。夜勤もそうだ。最初は、家に帰って寝ると、朝体を起こすことが出来なかった。夜勤をやれば、一日の総歩数は4万歩を超えた。夏場は、2リッターのペットボトルを4本開けたこともあった。オムツ交換する人数は、一回の夜勤で、60人回、中には、海のような排便を見ることが数人いる。その時は、特浴場をあけて、風呂に入れることもあった。
ここでは、約7年いた。最終的には、介護主任まで行い、シフトを組むこともできた。職員の中に、左巻の人間がいて、密かにTwitterで呟いていたら、それをその左の人間に見つけられて、辞職に追い込まれた。
六度目の転職である。

家の近くの訪問介護施設に職を求めた。特養からすれば、天国のような仕事だった。ここのご利用者さんから可愛がられ惜しまれながら、定年を迎える。

定年を迎えた後、学生時代の約束を守ろうと塾に戻った。タイミング的には、ドンピシャだったのだろうか。7度目の職場は、個人の介護的な仕事だ。

細かい話が沢山あるのだが、それを大胆に捨象してしまったので、よくわからないかもしれない。でもいえることがある。積極的な転職も、小教区的な転職も、いずれにせよ大変なストレスの連続だ。それに対応した、精神力が必要だと思うのだが、皆さんはどう思われますか。乱文乱脈にて失礼します。推敲未済ですが、どうかご容赦。

#転職体験記

この記事が参加している募集

転職体験記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?