【小説】せきれいの影|5話
日一日と寒さが厳しくなる。
それに、遅い日の出に早すぎる日の入り。
この時期は疲れや気分の落ち込みに見舞われる日が多い。
経理部で働いているので、年末年始の繁忙期を考えるといまから憂鬱だ。
もちろん、決算前後こそ忙殺されるし、体調を崩す人間が多いのも春先のあの時期だ。
上司も同僚も口をそろえて四月がヤマだという。
どうやら俺は少数派らしい。
繁忙期直前の貴重な日曜日、俺は香ちゃんのアルバイト先に居た。
ちょっと前、香ちゃんがテキストで教えてくれた、アパートの大家さんのアトリエだ。
SEMへの興味が日ごと強くなっている。
これまで当たり前だと思っていた会社勤めに疑問を抱き始めた。
毎日、出勤しては帳簿とにらめっこをして、夜の九時に帰宅できれば早いほう。
そんな日々に疑問を抱き始めた。
そのことを話すと香ちゃんは『SEMなりの働き方を見てみる?』といってくれた。
SEMの流儀により、勧誘は禁止されているので「見学」することで落ち着いた。
「おばあちゃん、お客さんだよ」
おばあちゃん、と親しげに呼ばれた大家さんがカーディガン姿で椅子に座っていた。
「あら、木戸さん」
「ご無沙汰しておりました」
大家さんはすっかり白くなった髪をおかっぱ頭のように切りそろえている。
小柄で、背は少し曲がっていたが、気品の感じられる人だった。
「お加減はいかがですか?」
「ええ、おかげさまで何とかやってますよ。すみませんね、立ってご挨拶もできなくて」
「いえ、お気になさらず」
本当に気にしていなかった。
それでも大家さんは「体に自由が利かないものでして」となお申し訳なさそうにしていた。
それでいて気が弱っているという風でもない。
いまの時代の老人らしく、芯の強さを持ち合わせているのだろう。
「そしたら香子ちゃん、今日もよろしくお願いしますね。あ、それとお茶をふたつちょうだい」
「任せておいて」
心なしか香ちゃんがいつもよりうきうきしているように見えた。
程なくして香ちゃんがお茶を運んでくれた。
俺のような貧乏舌でも上等なものだと分かった。
「それにしても、よく絵をお描きになるんですねえ」
アトリエには大家さんの作品が、ざっと見た限り数十点、壁一面に飾られていた。
彫像もある。
「下手の横好きというやつですよ。あそこの壁の上あたりの作品を飾るときは香子ちゃんが手伝ってくれたの」
「へえ」
「でも、情熱も実力も、せいぜい七十までね。八十の声が聞こえてくると衰えちゃうのよ。最近は、ほら、あそこに飾ってあるようなものをばかり描いてるんです」
大家さんが示したあたりには、筆といくつかの絵の具で描いたような、素朴な作品が並んでいた。
「あれは水彩画ですか? あ、私は絵なんてまったくの素人なんですが」
「ええ、水彩ですよ。というより、私は昔から水彩専門でしてね、油彩も少し習ったんだけど……」
大家さんと話し込んでいる間、香ちゃんは床掃除をしたり、奥で皿か何かを洗ったりしていた。
もっとも、ちょくちょく手を休めては俺たちの話の輪に入ってきたりした。
のんびりとした仕事らしい。
一時間ほどで香ちゃんの仕事が終わった。
「ありがとう、香子ちゃん。それと、今度写真をお願いね。いつも通り、五枚か六枚でいいから」
「はあい」
香ちゃんは屈託なく返事した。
彼女はSEMに参加しているが、仕事嫌いというわけではないのだろう。
「あ、おばあちゃん、今回は作品の整理しなくて大丈夫?」
「そうね、物惜しみもいい加減にしないと支度が進まないものねえ。最近の作品はいつでも支度する用意はできてるけど」
何のことかさっぱりわからず、口を挟んだ。
「支度、ですか?」
「いえ、こちらの話なんですけどね。ほら、私もこの歳でしょ? こんなものばかり遺していくのも子供たちの迷惑になりますから」
大家さんはアトリエ全体を見渡していった。
ああ、と曖昧な相づちを打った。
大家さんもそんな年になったんだな。
いわれてみれば、恵梨香と入居の申し込みをしたころはもっとかくしゃくとしてたっけ。
ぼんやりとそんなことを思っていた時、ふと、一枚の写真が目についた。
大きく引き伸ばして現像した風でもない。
題名がついていなければ見逃していたかもしれなかった。
『せきれいの影』
香ちゃんが撮った写真に違いなかった。
「すみません、この写真なんですけど、ちょっと詳しくお聞きしてもいいですか?」
「あら、お目が高いわね。それ、絵にするのがもったいなくて写真のまま飾ってるの」
「やめてよお」
香ちゃんは気恥ずかしそうにしていた。
小鳥の群れが朝焼けを背景に羽ばたいている。
その幾筋もの長い影が印象的な写真だ。
「学生時代、友達とよく言い合いになったんですよ。春先だったかな? 小鳥が群れになって、地面をちょこちょこ走ったり飛び立ったりしているのをみて、あれはせきれいだ、いや、尾長だ、ってね。結局わからずじまいだったんですよ。でも、この写真を観てハッとしました。あれは間違いなくせきれいでした」
「うん、それ、せきれいで間違いないよ」
香ちゃんのお墨付きもいただいた。
「そんなことがあったのね。ご学友の皆さんとは仲がよろしかったの?」
『ご学友』と来たか。
気品といい、穏やかな物腰といい、生まれも育ちもいいんだろう。
「腐れ縁みたいなものです。特に一人とはね。私とほかの二人が、小学校から高校まで、三人揃ってずっと同じクラスだったものでして」
あらそう、と大家さんがいうが早いか、香ちゃんが汗をシャツの裾で拭いながら、
「おばあちゃん、それ、持って行ってもらったら? 木戸ちゃんも思い入れがあるんでしょ?」
え? と素っ頓狂な声が出てしまった。
「ちょっと香子ちゃん、いくらなんでも木戸さんのご迷惑になるわよ。確かにいい写真だけど……」
「いえ、いただけるんでしたら嬉しいです」
大家さんは目をぱちくりとさせた。
その漫画のような振る舞いを見て、香ちゃんはクスクスと笑い声を漏らした。
「香ちゃんのいうとおりなんです。青春時代を思い出しまして」
「まあ、木戸さんがいいっておっしゃるなら構いませんけど。そうね、ちゃんとした額に入れればいいインテリアになりそうね」
「もちろんです。買いたいぐらいですよ。今月の家賃をおまけしてくれるなら」
大家さんも香ちゃんも、今度は可笑しそうに笑った。
俺も笑ったが、その場に合わせたようなものだ。
学生時代、こんなおべんちゃらを使う大人になるとは思ってもみなかった。
三十過ぎのサラリーマンなんてこんなもの、と割り切るのは簡単だし、そうするしかない。
でも。
青春時代が忘れられない。
嫌な思いもたくさんしたし、もっと充実した日々を送る余地はあったのかもしれない。
だが、いまよりもたしかに燦燦とした日々を送っていた。
あれから、サッポロベツに出てきて、恵梨香と出会い、結婚し、死なれた。
それから一年ほど白黒映画のような日々を送ってきた。
それが、香ちゃんと出会って、こうして大家さんにまでよくしてもらって、少しは彩りがよみがえってきたような気がする。
しかし、青春時代にはかなわない。
せきれいの写真を観て、そんな思いが大挙して押し寄せてきた。
これを観るたび、あの日々の輝きとほろ苦さを思い返すのだろう。
胸が締め付けられるような、それでいて観るのをやめられないあの感覚。
それは、恵梨香の遺影と向き合うときと同じようなものだろう。