芸術の鑑賞について【基礎教養部】
今年度から、複数のグループを統合し、その中で得られたことを記事として書くという活動が開始した。私達チームAはチームGと協同している。チームGは『短歌のガチャポン』(穂村弘)を扱っており、我々が題材とした『音楽の哲学入門』(セオドア・グレイシック)とは「芸術・美学」といった点で共通しているため本記事では「芸術・美学の鑑賞」に関して考察したい。
1 芸術について
芸術の一つの性質として「言葉では表現出来ないものを鑑賞者に伝える」ということがある。これは特に短歌を通じて思ったことである。短歌の場合は言葉で言葉を越えようとしているため少しややこしいが間違いなくそういったエネルギーが込められている。短歌ではたった31文字で自分が感じた情景や気持ちを我々に伝えようとする。例えば、美しい空を見て感じたことを「美しかった」と一言で済ませても当然だが伝わらない。これを400字詰め原稿用紙10枚分書いたところでまぁ無理である。これを何とかして伝えようとしたのが芸術の1つの発露である気がする。
短歌に関する一つの例として『短歌のガチャポン』内では
という短歌が紹介される。
場面としては先生が外国人に日本語を教えており、形容詞の過去形を説明しているのだが、そこで「さびしかった」という語を生徒に使わせる。他に日常的かつ基本的な単語はあっただろうにわざわざそんな意味ありげな言葉をピックアップする。そには危険で隠れた想いを感じずにはいられない。この句からは言葉には出来ない想いや感情を言葉を通じて感じることができる。
これは最近ジェイラボ内で「俳句」を作ることによっても感じた。今年度から俳句部なるものが発足されWSで俳句大会が開催されたのだが、自分で実際に作ってみても他の方の作品を読んでいてもそこには言葉による直接的な想起とは違った様々な情景や面白さが感じられた。
音楽ではそれは音を通じてであるが同じ様な効果がある。言葉などのコミュニケーションではなく音楽によってより強く得られるエネルギーがあるのである。
2 芸術の鑑賞方法
よって、芸術の鑑賞として言葉から浮いた想いなどをしっかり受けとめることが一つ大きな目的としてあるのではないかと思う。そして、そのために必要なのが、言葉や芸術の枠をしっかり身に付けることなのだ。一般的に芸術の鑑賞には技術的素養や文化的背景などの「知識」が要るとされておりそれはその通りなのだが、その中で表現者が抱えていた想いや思想に寄り添うような姿勢も必要である。
技術素養や文化的背景などの「知識」に関しては、前記事でも述べたように私は正直あまり関心がなかった。しかし、メンバーの記事などを読むとその無関心は良くないものだと認識できた。チームメンバーの1人はクラシックに通じており、深い鑑賞を行うためには一定以上の知識が求められることを強調していたのがそれは確かにその通りだったのだ。最初は「クラッシクだから」そのようなことが言えるのではないかと感じていたが、やはり知識や経験で得られるものは違うと「鑑賞」を強く意識してみて思うことができた。
そして、表現者(の想いや思想)までも含めた「鑑賞」に関してはまだその意識が芽生えたばかりで全くと言って良い程成せていない。特に、芸術でなされる表現は言葉や色、音などそれ自体には個性がないためつい忘れそうになってしまう。(声は個性があるため意識しやすいが)
平たくいえば、作者のことに関して知ろうというだけのことではあるがこれがなかなかに難しいのである。
3 まとめ
音楽に加えて「短歌」という一見関係のなさそうなものと比較することで芸術の鑑賞に関して幅のある見方が出来たように思う。私は講義で西洋絵画を学んだことをきっかけに今後絵画なども鑑賞したいと思っているのでこの学びは良かった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?