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『22世紀の民主主義』(成田悠輔)

(「民主主義」という言葉が使われる時、大抵は「どこどこの」という条件が暗についている。つまり、「民主主義」一般を考えるということはなかなかできない。本書やこの記事においても、「民主主義」とはいうもののやはり自国(日本)独特の慣習や制度について意識している部分がある。その点は留意して欲しい。)


「若者よ、選挙に行け」というのは耳にタコができるほど聞いてきた。
僕も選挙があるときは生真面目に行っている。
だが、「高齢者や既得権益の圧倒的な壁の前では何も意味がない」という気持ちは強い。

そして、その気持ちの裏には政治家達に「これから100年先、自分の国をどうしたいか」という熱意がとてもじゃないが感じられないということがある。(その点だけでいえば中国などの権威主義的国家の方が明確なヴィジョンと野心を持っている。)

しかし、それも遡ると「選挙」という制度に修正すべき穴があることに気づく。近視眼的になってしまうのも無理はない。制度的に変更させるというなら、未来への投資や政策を行う政治家の賃金を上げるなど何かしらのインセンティブを与えるというごく簡単なやり方がある。ただ、これも世論一般に「100年後を見る」気持ちがないと何も意味がない。
顔も名前も知らないその先の世代に想いやエネルギーを伝えるのはとても容易なことじゃない。50年後が不安定な日本ならなおさらだろう。


本書は100年後に同じような想いをさせないためには何か出来るんだろうかという生意気なことを考えるきっかけにはなった。最近話題の「民主主義」について取っかかるにはお薦めである。


後書き
書評でも述べたが民主主義とは別に著者にも興味があってこの本を購入した。
結論からいうと、特に見方に変化は無かった。とにかく明確な論理構成(まるで論文)、キャッチーで少し毒がある文言など「まぁそうか」という感想だった。
それ自体はそれとして別に良いのだが、思わぬ点で副産物もあったので紹介したい。

実は、私は今何の因果か哲学書を読んでいる。
それはいちいち立ち止まらなければならない。つまり日常的な言語でスムーズに読めない、あるいは読んではいけない。最近は折に触れてその哲学書ばかり読んでいたのだが、本書のような自動で処理できるものにも「意識化」して処理しようとする感覚が働いていることに気づく。
僕がこの記事の最初で民主主義の意味に関して一言言ったのも多分そういうところが助けになっている。

やはり、本は古今東西色々な種類に取り組んでみるものである。

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