定義って人の数だけある。実際、噛み合う話はこの世に存在しないんじゃないかとすら思える。
定義の違う言葉を雰囲気で理解し合いながら、それとなく折り合ってるのが人間関係なんじゃないかな。
ここが大きくズレすぎてると、全くもって噛み合わない。
というか的にかすりもしないボールを投げ合うような感覚。
他競技の土俵違いで、互いに一人相撲を取るような感覚。
例えばね。
先日「結婚とは何か」という質問を投げかけて返ってきた答えは
「生活」「契約」「旅」「子どもを育てる共同体」「世界を眺める視点を増やすこと」等々。
みんな違ったってわけ。
例えば。
彼は私に「好き」とか「愛してる」とか言わかなったけど「抱きしめたい」と言った。
その時の言葉以外の全てから好きと思ってくれてることが伝わったし、私にとっては抱きしめたいことや触れたいことや、そういう色々の感情や衝動を全部ひっくるめて「好き」と呼ぶ。
つまり私の定義上では彼は私のこと好きだと思ってくれてるわけ。その瞬間は。
それで十分すぎる。
という根も葉もない例え話なんだけど。
定義してそれを疑わず、心底信じることで、自分用の世界を創るということ。
そういうことを人間みんな無意識でやってる。一部の人は意識的にやってたりする。
定義とは自己世界の基礎基盤であり、現実創造の要です。
そう私は定義しました。
何としてでも好きに生きる。
難とせずとも好きに生きられる。
お昼寝しながら稼ぎます。
またね。
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