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僕は結局写真を撮らなくなった。

今、僕は写真というものがあまり得意ではないし、好きではない。

学生の頃は、半ば強引に前に出て写っていたような性格であり、旅行へ行った際には人並み(もっとも人並みとは?)には撮っていた。見返すことももちろんある。

だが、いつからか、写真というものに価値を感じなくなってしまった。というか、撮らなくなってしまった。あまりにも写真を撮らないので、「顔が写っている写真を送ってくれ!」と言われても、困った。身分を証明しなきゃならないので、免許証、マイナカードの無味乾燥なものくらいしかない。7年前の写真を送ってもなぁ。

しかし、僕はそれでも写真を撮らない。

なぜだろうと考える時、やはりスマホの影響だろう。
誰もがポケットに入れて、その辺、あちこちで撮ることができる。カメラのないスマホってあるのかな。

なぜにそんな撮ることがあるの?意味が分からないのが正直なところである。スマホを対象物に向けて、画面越しに対象物を見ている。何ピクセルかは分からないが、画素の集合体を見ている。意味が分からない。

0と1で形作られるデジタルの世界を通じたことを見たと言えるのか。意味不明である。これは一種の嫌悪感であることは認めざるを得ない。「近頃の若いものは!」論の類であるのも否定し難いのがややこしい。

認めたくないな、やっぱりね。それでも、一斉にスマホを向ける嫌悪感は直感的な反射であるのだ。仕方がない。

ただね、少し考えてみたのであるが、おそらくは写真の本質を見てしまったのだと思う。

写真を撮るという営みは時間に対する嫉妬や抵抗、未練なんだ。
いかに不可逆な時間を切り取って、抗おうとしているか、そんなことが見える。もちろん抗うことなど不可能であるからして、時間を少し切り取って写真に収めるという妥協をしている営みである。

時間の不可逆性を人間が意識することは裏には「死」がある。

人間は死ぬまでに種を残そうとする。
これは別に難しいということではなく、誰かがを残そうとした結果、僕が存在している。種の保存ってやつだ。僕のDNAには何かを残そうとした生々しい営みが刻まれている。

どうやら、写真もその一種なのではないかとも思えてならない。
本当は実物本体を見ればいいのに、わざわざ液晶で見ようとする。そこまでして、何かを残そうとする。時間を。限りある時間を。スライスされた一片の時間を。

誰もが死が来ることを知っている。時間が止まることを知っている。時間よ、止まれといってもそうはいかない。

もし時間が止められない、死があるということが分かっているのなら、いっそ、ほんの一瞬の時間の切り取りを残してあげればいい。死という絶対真理の中で、ギリギリの妥協なのである。

写真を撮ることは死への抵抗なのだ。

死をどう捉えるかはそれぞれであるけれど、写真という営みに僕は冷淡になったのは死への抵抗を諦めたからなのかもしれない。僕は全く自覚はないが、老いが種や時間を残すことを本能的に諦めたからかもしれない。

走馬灯ってやつは画像ではないのかもしれないなと最近思う。
非常に直感的に目に見えない今まで五感で体感してきた最大公約数が体験できることなのかも。

であるならば、スマホのスクリーンで視覚は使いたくない。
実物を見て、五感の最大公約数を増やしていくことに専念したくはないか。

でもどこかで五感は残るかもしれないという一縷みにかけてみたくなるほどに死へ近づいてきているのが老いであるのかもしれない。年代物のワインを口に含み、香りを嗅ぎ、喉を潤し、酔っていくような芳醇な五感を味わう。何と通なことよ。





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